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あわ (4)
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 あたしは吉岡と店の外にしゃがみ込む。中の喧噪と切り離された外の空気の冷たさが気持ちいい。どうしても嫌なのだ。この店の中には五年前の人間達がいる。あたしの人生のなかで、もうすでに出番を終えた登場人物どもが集っている。そして松島かんな―――。五年間を経て松島はすっかり大人になってしまっている。馬鹿で愚かな松島は、大人びた二十歳の女性になった。なのにあたしは五年前の子供のままだ。畜生、松島! 誰よりもガキのくせに、どうして大人のフリなんかしてやがる。あたしを置いて!
 自分がみじめで仕方がなかった。あたしは何かを手に入れることを諦めたかわりに、子供時代に取り残されてしまった。ひたすらに時間を消費して、ようやく二十歳になったのに、あたしは大人にはなれなかった。学校も行かず、働きもせず、だらだらと寝ころんでいるだけの大きな子供。
 あたしは何を待っている? 何が欲しい? 何になりたい? あたしは、どうしたいんだ?
 小学生の頃、あたしや松島が憎んだ、自分が子供であることすら気づいていなかった子供達ですら、今ではまっとうな大人になって生きているというのに。

「伊月ちゃん」
 吉岡が心配そうにあたしを覗く。
「もう帰ろうか?」
「……いい。もうちょっとここにいる」
 あたしは五年前の吉岡をもちろん覚えている。再会したとき誰だか分からなかったのは、吉岡が眼鏡をコンタクトにしていたからだろう。当時、吉岡はメガネちゃんと呼ばれていた地味な少女だった。そして松島に金魚のフンのようにつきまとっていた連中のひとり。こいつだってみじめなものだ。アイデンティティを眼鏡に奪われていたなんて。
 その吉岡だってこんなに変わる。今では小綺麗な服を着て、ダサい三つ編みもやめ、脱色した髪をショートカットにしている。この様子では男だってもう知っているだろう。
「ごめんね……無理に誘っちゃって……」
 吉岡は吉岡なりに責任を感じているようだった。お人好しの性格は変わっていないようだ。
「どうして、あたしを誘ったの?」
 あたしはその疑問を吉岡にぶつける。クラス会当日になってかかってきた吉岡の電話。それに、あたしと目があったときの松島の表情。それらはどう考えても不自然なものだった。やはり幹事の松島は、あたしだけを誘わなかったのだと思う。気を遣った吉岡があたしをわざわざ誘ったのだ。
「…………」
 吉岡はすこし黙って、話し始める。
「本当はね、一週間くらい前から、松島さんから電話があったの。クラス会をやるから、予定を空けといて、って。あたし、懐かしくて、つい長電話しちゃって……。それでね、伊月ちゃんの話題になったとき、松島さんが『伊月は、呼ばないから』って言ったの」
 やっぱりそうか。だがあいつの気持ちは分かる。あたしだって松島の顔なんて見たくなかった。お互いに見たくない顔ナンバーワンのはずだ。
「あたし、何で伊月ちゃんを呼ばないのか分からなかったけど、なんとなく、理由は聞けないまま電話を切ったの。それから一週間、あたしはすごく悩んだんだよ。あたしは松島さんも伊月ちゃんも好きだから、二人共に会いたかったんだよ。なのに伊月ちゃんだけ呼ばないなんて……。それであたしは、松島さんに怒られることを覚悟して、伊月ちゃんに連絡したんだよ。なんか、そういうの、フェアじゃないと思って……」
 なるほど。だがあたしに連絡するのはともかく、嫌がるあたしを無理矢理連れて行ったのはどういうわけだろうか。
「あたしね、伊月ちゃんとはあんまり喋ったこと無かったけど、本当は仲良くなりたかったんだ。松島さんとは違う、なんか格好いい感じで、ちょっと憧れてたんだ」
 なんだそれ。気持ち悪いこと言うな。
「松島には会いたくなかったんだよ、あたしは」
「やっぱり、そうなんだ……。松島さんが、伊月ちゃんを呼ばないって言ったときに、二人が喧嘩してるんだと思ったんだ。喧嘩したまま卒業して、そのままなのかも……って、そんなのよくないよ。あんなに仲よかったのに、喧嘩してそのままなんて、悲しいよ! だから、仲直りして欲しくて、あたしは伊月ちゃんを呼んだの……」
 吉岡はあたしと松島の本当の関係を知らない。
「やっぱり、迷惑だったよね、こんなの」
「うん」
 あたしは即答する。だって迷惑だもん。
「う……」
 ちょっと落ち込む吉岡。よしよし。十分に反省しなさい。
「でも仲直りはしなくちゃ駄目だよ」
「やだね。っていうか、仲直りってなんだよ。喧嘩なんかしてないんだよ。あたしたちは」
「そうなの?」
「そうなの。それに昔の事なんて忘れちゃったよ。このクラスのことなんてちっとも覚えてない。中学の記憶なんかもうどっかにいっちゃったからね。あんたのことだってあんまり覚えてないんだよ」
 すると吉岡は、
「なんか……いつきちゃんらしくないよ。何だか、格好悪い、そういうの。そんな風に全部忘れたふりなんかしても、なにも意味無いよ。いくら忘れようとしたって、過去が無くなるわけじゃないんだよ」
 などと、何も知らないくせに的を射た言葉を放つ。あたしは動揺する。
 そのとき店のドアが開いて、クラスの男が顔を出す。あたし達に入ってきなよと言う。吉岡はあたしの顔を伺う。あたしは店の前の駐車場に目を落としたまま、
「行って。暫くひとりになりたいから」
 とつぶやく。なんだそれ。一人黄昏てんじゃねえよ。だっせーな……。こうしてまた逃げるあたし。

 店先に座り込んだままあたしは眠ってしまう。まったくあたしはいつでもどこでも寝てしまう。あたしは睡眠が好きだ。意識を閉ざしている間は何の苦しみもない。起きていてはまたどうでもいいことばかり思い出してしまいそうだった。
 あたしの体が冷えきったところで肩が誰かに揺すられる。
「伊月」
 ああ? 吉岡か。もう終わったのか、さみいよ。まだ眠いし。
 しかし顔を上げたあたしの目に映ったのは吉岡ではなかった。
「…………」
 あたしは言葉を失う。何も心の準備をしていなかった。まるで不意打ち……こんなの反則だ。突然目の前にあらわれやがって……。あたしは何て言えばいい? どんな顔をすればいい?
「信じられない。こんなところで熟睡してるなんて……。あなたちょっとおかしいんじゃないの?」
 と言って笑う顔は、あのときのままだ。五年前と同じ、松島鉋だ。
「久しぶり」
 と松島は言う。二十歳になった松島は、近くで見ると輪をかけて美人だった。これが正しく歳を取った結果なのだと思う。あの頃のような不安定さはもう見えない。もう彼女は子供なんかではないんだ。思春期なんて、とうに終わっているのだ。今の松島は、昔のことを昔のこととして笑って話せるだろう。だがあたしはどうだ? 過去を忘れたふりをして、誰よりも過去に縛られてるんじゃないのか?
「なんで……」
 あたしは言いかけるが、松島はあたしの言葉を遮る。
「風邪引くよ、こんなところにいたら。はやく行こ。もうみんな行っちゃったんだから」
「行くって、どこへ?」
 松島が差した指の先には、カラオケ屋があった。村さ来の向かい。

 時間は深夜の十二時をまわっていた。松島に連れられてカラオケ屋の受付を通り過ぎる。
「三部屋とってあるの。そのうち一つは、睡眠部屋ね」
 あたし達は松島の言うところの睡眠部屋に入った。なるほど、確かに泥酔したクラスメイトが四人ほどソファの上で寝息を立てている。しかしその中には吉岡の姿もあった。おいおい、あたしはどうやって帰ればいいんだよ。とりあえずあたしたちはソファに座る。
「なにか歌う?」
 と松島が訊くがあたしは首を振る。あたしが黙っていると、
「聞いた? メガネちゃんから」
 マイクをもてあそびながらきまりが悪そうに目を落として呟く。
「聞いた」
「まったく……おせっかいだよね、相変わらず」
「本当だよ」
 沈黙。
 隣の部屋からうっすらと漏れる音楽。誰かの寝息。
 あたしは探している。松島の糸口を。かつては手に取るように分かってしまった松島のことも、今ではなにも分からない。松島は今何を考えている? あたしは松島の中の、五年前と同じ部分から、古い記憶を頼りに、松島のことを知ろうとする。
「私ね、」
 沈黙を松島が破る。
「五年前のこと、まだ気持ちの整理ができてなくて……伊月に合わせる顔が無かったんだ。伊月はきっと、もう、あのときのことなんて忘れちゃってるよね」
「え?」
 あたしは―――驚いた。松島の言葉があまりに意外だったから。いくら見た目が変わっても、やっぱり松島は松島なんだ。松島も五年間、あたしと同じ気持ちだったのだ。
「だから、まだ伊月には会いたくなかった。私、意気地が無くて……。クラス会はやりたかったけど、伊月とのことは、まだそっとしておきたかったの。あのときのこと、私、謝らなくちゃいけないのに。ずっと後悔したまま生きてくなんて、嫌だもん。伊月を呼ばないことをメガネちゃんに話したのは、あの子のお節介に心のどこかで期待してたからなのかもしれない」
 あたしは言葉を探す。ここで、あたしが松島と同じようにうじうじと五年間生きてきたことを悟られるのは嫌だった。そんなのは負けだ。

「ホント、馬鹿だよね、松島は。いつまでもそんな昔のことに拘っちゃって! 五年だよ、五年も経ったんだよ。あの頃はあたしたち、ほら、子供だったから、ああなるしかなかったんだよ。誰も、何も悪くないんだよ」
「伊月……」
 それが、あたしにできる精一杯の虚勢だった。あたしは泣きそうだった。あたしはずっと松島に許して欲しかったのに、松島はあたしにあやまりたいという。ここであたしが本音を出してしまったら、それはまた五年前に逆戻りじゃないか。くだらない思いが交錯して、またすれ違いの始まりだ。こうやってあたしが強がってみせることが、松島への最大の償いなのだ。
「どうしてそんなに優しいかな、伊月は……」
 松島にはきっと、あたしの強がりは全部分かっている。それでもあたしはそうすることしかできなかった。
「ねえ、伊月」
「なに?」
「あたしたち、大人になれたのかなあ?」
「…………」
 うつむく松島。その目にはきっと涙が溜まっている。だがそれは確かめることができない。あたしの視界だってぼやけてしまっているから。
 これが五年前だったら、あたしは松島を抱きしめてあげることができた。でも今はそれをしてやることができない。それをしてしまってはいけないのだと思う。いまここで松島を抱きしめて、あのときの関係を修復するのは、きっと簡単なことだ。だがあたしたちは前に進まなければならない。過去に逃げてはいけないのだ。
 そのとき松島の手が、あたしの腰にまわる。あたしのかたくなな意志は簡単に崩れてしまう。本当は、これを期待していたのかもしれない……。
「ごめんね、伊月、今だけでいいから……」
 あたしはやさしく松島を抱き返す。腕の中の松島は、あの頃のように、綿のように柔らかく、あわのように脆く、弱かった。
「ごめんね。気持ち悪いでしょう? でも、私、あ、あう……」
「いいよもう。何も言わないで。全部許してあげるから」
 あたしは松島を許す。それはあたしの中の松島である部分を許すことでもあった。松島はあたしの一部。あたしは松島の一部。あたしたちはもともと一つだったのに、どこかで切り離されて生まれてきたんだと思う。松島を許すことで、愚かなあたしがすこしでも許されて欲しかった。
 松島を強く抱きしめる。他の人にこんなところを見られたらいろいろとまずいような気がする。でもあたしの胸に顔を埋めて泣いているのは紛れもなくあの松島なのだ。五年間何度も思い出していたあの松島の感触。あたしはあのとき本当に松島のことが好きだったのだと今では思う。
 やっと会えた。やっと松島に会えた。こうしてもう一度松島を抱きしめることで、あたしは罪深い五年間のすべてが許されたような気がした。

 またしても眠ってしまったらしく、あわてて目を覚ます。腕の中にもう松島の姿は無かった。あれは現実の出来事だったんだろうか……それとも夢だったのだろうか。あたしの腕には、ただ、か細い松島を抱きしめていたときのかすかなぬくもりだけが残っていた。

 きっと誰も大人になんかなれない。
 大人の正体は、大人のフリをした子供たちだ。
 そしてそれが新たな大人になっていく。
 あたしたちは、大人になっていく。

 カラオケルームに残っていたのはあたしと吉岡だけだった。時計はもう朝の六時を示している。あたしは眠りこける吉岡に蹴りを入れる。
「ぐ、う」
 みぞおちに喰らった吉岡はわけも分からずに飛び起きる。
「な、なに? 伊月ちゃん?」
「帰るぞ」
 吉岡を引っ張り起こすが、吉岡はまだ酒が抜けきってないようで足下がおぼつかない。このアマ、車で来たくせに飲んだくれてんじゃねえよ。あたしは吉岡を引きずって外に出、キューブの鍵を奪って吉岡を後部座席に押し込める。
「どこに行くの?」
「あたしの部屋。あんたまだそれじゃあ運転できないだろ」
「うん……ありがと」
 運転席に座ってエンジンをかける。
「伊月ちゃんも免許持ってたんだ」
「無いよ。でもオートマなんて原付と一緒でしょ? 多分」
 えっと……こっちがブレーキでこっちがアクセル。大丈夫、行ける。
「全然違うー! ぎゃー止めてー!」
「うるさいなあ……」
 しかしあたしの運転は意外とまともだった。これが初めてではなかったし、明け方の車の少ない国道を走るくらいは何とかなる。多分ね。
「あんたって一人暮らし?」
「え? そうだけど」
「あのコンビニの近く?」
「うん」
 ビンゴ! あたしはいいことを思いついた。
「料理とか得意な方?」
「まあ、結構……」
「じゃあ今日からあたしの部屋に住め」
「え、ええー……」
「誰かと家賃を折半しないと破産しそうなんだよ」
「そんなこと言われても……」
「嫌なの?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ決定な」
「ええー……」
 吉岡は渋々了承する。さあこれから忙しくなる。吉岡の引っ越しの手伝いに部屋の片づけに……あたしはやらなければいけないことをいろいろ思い浮かべる。これで家賃の負担も減るしまともな食事にありつけるし車も使える。
「ねえ、伊月ちゃん、松島さんと話した?」
「うん……。でもあの馬鹿、あたしの知らないうちに挨拶も無しにさっさと帰りやがった。まったく、何考えてるんだか」
「でもさ、結局のところ仲いいよね、伊月ちゃんたちって。何かそういうのって、いいなあ……」
 はは! とあたしはつい笑ってしまう。
「まあね。最高の親友だよ」

 ほのかに明るい国道を飛ばす、酒気を帯びた車。窓を開けると、外の空気が流れ込んでくる。薄紫色に染まったビル。缶詰の桃ような太陽。新しい朝。おそらくは昨日と何も変わらない朝。
 あたしはレズビアンだよ、というと吉岡はすこしおどろいていた。

あわ "the life like a bubble" ――― 終