雉間《きじま》里春《さとはる》という友達がいた。雉間は僕の幼稚園からの友達で、そのあとも小、中、高と一緒だった。
だけど彼は一人でどこかへ行ってしまった。僕の知らないところへ。
雉間と僕とは仲が良かった。少なくとも僕はそう思ってた。雉間は親友だった。雉間はちょっと悪い子で、しかも頭が切れるもんだから、効率よくあらゆる悪事をこなしていた。善良な人間に迷惑のかかる、例えば万引きとかはしなかったけども、悪い奴とか気にくわない奴に対しては容赦がなかった。雉間は中学時代テニス部だったけど部活には行ってなくって、僕と一緒にゲームセンターに入り浸っていた。あのころのゲームセンターっていうのは結構治安が悪くて、不良のたまり場みたいになっていて僕たちはよく絡まれた。だけど雉間は力がとても強くて、相手が高校生でもたちまちボコボコにしていた。彼はそんな感じでひたすら喧嘩が強かった。
彼の強さっていうのは持ち前の腕力だけじゃなかった。特筆すべきはその徹底した冷酷さだった。彼は鞄の中にいつも何らかの凶器を入れていて、それを使うことを躊躇しなかった。普通の人間って言うのは喧嘩の時も、相手のことを考えて少なからず力をセーブしてしまう。だけど彼は違った。彼は相手の頭にバットを全力でフルスイングする方法を知っていた。僕も悪い友達なら何人か知っているが、何の引け目も感じずにそんなことが出来るのは雉間くらいだっただろう。僕はそんな彼の冷たさに時々ぞっとすることもあった。
雉間は基本的にはとてもいい奴だった。友達思いだった。あまりハンサムではなかったけど、高校に入ってバンドを始めてから女の子に異様にモテ始めた。彼の叩くドラムは腕力に任せたひどいものだったけど。それに彼は嘘つきだった。それが原因で何度も喧嘩をした。乱暴者の雉間も僕との喧嘩の時だけは手を挙げなかった。彼は口が悪かったが、負けず劣らず僕も口が悪いので最終的に喧嘩はすごい言い合いになるが、ひととおり罵りあうと大体最後はお互いがすっきりして喧嘩は収まった。それがいつものパターンだった。
でも、あのときの喧嘩だけは違った。あの喧嘩の原因は何だったのだろう。今では余りよく思い出せない。最初のうちは僕が一方的に文句を言って怒鳴っていた。そうだ―――彼がついた嘘で僕は傷つき、また、女の子を傷つけ、そのときばかりは許せなかったのだ。僕は雉間の唯一の親友だった。雉間はその強烈な性格故に、友達や女の子を数え切れないほど敵に回していた。そんな彼の最後の支持者が僕だった。だから僕は彼のそんな性格を直してあげたかった。彼は彼自身の傍若無人ぶりが自分を追い込んでいる事に気づいていなかった。そんなのではいつかは破滅してしまう。僕は彼の最後の親友として、彼を正しくしてあげたかった。僕が見離したら、彼はもう一生あのままだと思ったから。しかし彼は直らなかった。僕の説得には耳を傾けようともしなかった。僕にはそれが悔しかった。彼にとって僕は何者でもなかったのかもしれない。僕は裏切られた気分だった。惨めだった。激しい罵倒合戦の末、彼はとうとう僕の首を掴んだ。僕の体は強烈な握力で持ち上げられ、彼は片手で僕の首を持って教室の壁に叩きつけ、そのまま片手で締め上げた。僕は薄くなっていく意識の中で彼の顔をはっきりと見た。冷たい目だった。それが彼の本質だった。僕は意識を失った。
意識が飛ぶのは初めての体験だった。目覚めたとき、僕は保健室にいた。僕は眠っている間、自分の脳が変化する音を聞いた。僕は決定的にそれまでの僕では無くなった。これが気づくって事なんだ。僕は学校、人間関係、社会、食物連鎖、思考、人類、宇宙、そういった知識としてしか知らなかったモノの存在が、僕の脳に溶けるようにすっと理解できた。視点がほんのすこしだけ高くなった。それだけで、視界は全く違うモノになった。世界に対する解像度が上がった。うやむやになってごまかされていた醜いものまでよく見えるようになった。覚醒だった。もしくは自我の目覚め。みんなは気づいているのだろうか? この世界の愚かさに。自分たちの生の無意味さに。その日から僕の学力は落ちるどころか格段に向上して、たちまち校内でもトップになった。こんなしょうもないシステムの中に生きるしかない世界なら、それを利用するしかないと思ったのだ。僕はなげやりになっていた。どんなに頑張っても、虚しく生を繋げることにしか役立たないのだから。ほんのささいな本質的でない幸せを求めたり、見せかけの自由を勝ち取ることに躍起になったり。それらは一体何のために? 一時的な快楽をつないで、つないで、連続した生を得て、やみくもになって、いろんなことを忘れて、忘れて、……。それは誰もがひた隠しにしてきた重要な問題だった。そんなことは誰も教えてくれなかった。
つまりは、こういうことだ。
『僕は何のために生きているのだろう?』
僕はその答えが知りたかった。雉間ならそれを知っていると思った。だけど、もう雉間には会えなかった。
雉間里春は、僕との大喧嘩の末に僕を締め上げて意識を飛ばさせたあの日、倒れた僕を一人で保健室まで運んで、そのまま姿を消した。学校にも、自宅にも、それっきり全くあらわれなかった。