初めて学校を抜け、美佐奈と食堂で再会した次の日、僕は制服を着て家を出、学校へ行く振りをした。平日なので今日も授業があるけど、僕はもう学校へ行く気にはなれなかった。公園のトイレで、持ってきた私服に着替え、制服をボストンバックに仕舞った。駅前のゲーセンで時間を潰す。この時間は人があまりいない。それも当然だ。みんな学校に行っている。
地下街のマクドナルドで昼食を済ませ、昼の一時を過ぎたあたりで学校へ向かう。昼休みが終わって午後の授業が始まった頃だ。学校にたどり着いて、僕は校門の前に座り込んだ。中へは入らない。
美佐奈は午後二時半にあらわれた。例の妙な変装をしておらず、制服も着ていない。昨夜は突然電話を切られ、待ち合わせをすることが出来なかった。それに、彼女の自宅の電話にかけても、誰も出なかった。だがここにいれば、美佐奈に会えると思ったのだ。そして予想通り、彼女は再びここに現れた。
「授業、出ないんだ」美佐奈は言った。
「携帯は?」座ったまま美佐奈を見上げずに僕は言った。
「持ってきたよ」
「じゃあ、返してくれる?」
美佐奈はにこりと笑う。「ここで話してると見つかるかも。ちょっと歩こっか」美佐奈の態度が昨日と違う。なにか不気味なものを感じる。「昼ご飯、もう食べた?」
「食べたよ。マックだけど」
「私も、マック食べたいな……」誘うように僕を見る。
「いいよ。行こう」
そして地下街。僕は今日二度目のマクドナルドだった。美佐奈はてりやきバーガーのセットを買った。僕の奢りで……。もう三時近かったので、客は少なく閑散としている。美佐奈は嬉しそうにハンバーガーに齧り付く。
「これでも、まだ返してくれない?」僕は言った。
「そんなことは、ないけど」フライドポテトを頬張りながら美佐奈は言う。
「どうして、こんなことをした?」美佐奈は昨日の電話で、僕のポケットから携帯を抜き取ったと言っていた。
「……ごめんなさい」
「答えになってない」
「その、なんとなく……盗れそうだと思ったの。そしたら、ほら、盗っちゃうじゃない」
はあ、と僕は大きくため息をつく。「いつもそんなことしてるの?」
「失礼なこと言わないでよ。それって私がスリみたいじゃない」高圧的な態度だった。「朝倉さん。昨日と随分態度が違うけど、あんまり調子に乗らない方がいいよ。僕にだって我慢の限界がある」僕はいい加減腹が立ってきた。「女の子にそんなことしたくないけど、力ずくで取り返してもいいんだよ」
「ご、ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」美佐奈は怯んだ。必要以上に動揺している。
「いいから、さっさと返してくれないかな。それとも、何か取引しようとしてる?」
「…………」美佐奈は黙る。虚ろな表情をしている。なんだか様子がおかしい。
「朝倉さん?」僕は美佐奈を覗き込む。まるで死人のように瞳孔が開いていた。「聞いてる?」
「私、私、頭がおかしいの……」僕の目ではなく、僕と美佐奈の間にあるらしい何かを目で追いながら美佐奈は呟いた。羽虫でもいるのだろうか。僕には見えない。
「そうだろうね」
「違う。私じゃない。みんながおかしいの!」急に大声を出すから僕は驚く。周りを見渡す。幸い、誰もいなかった。「なんで、みんな、気づかないんだろう。気づいてない振りでもしてるのかな? だったら、おかしいよ……おかしいよ、みんな、狂ってる」
「何の話をしてる?」
「だから……私は一人になりたかった。独りで生きていくしかないと思ったから」美佐奈は小さな声で言った。「だから、私は、学校をやめたの」
僕は椅子に背中をもたせかけ、大きく伸びをした。「ポテト、ひとつもらっていい?」しかし美佐奈はうつろな表情のままで、何も答えなかった。僕は美佐奈を見つめながら、勝手にテーブルのフライドポテトを二つ摘んで口に放り込む。
「みんな嫌い。大っ嫌い。誰にも、会いたくない」美佐奈は虚空に呟いた。
「違うね……」僕は強い口調で言う。美佐奈はようやく、焦点が合ってるのか分からない目で僕を見る。目があったのを確かめて、僕は続けた。「矛盾してるよ。そもそもね……、誰にも会いたくないのなら、わざわざ変装してまで学校の食堂に来たりしない。いくら安いからって、そんな意味のない危険をかいくぐる必要なんて無いだろ? お金がないのなら、この地下街にだって、いくらでも安く食べられるところがあるからね。そうだろ? 朝倉さんは、ただ、誰かに構って欲しかっただけなんだ。だからわざと目立つような変装をして学校に忍び込んだ。多分、一人暮らしなんだろう? 大見得きって家を飛び出して二年、とうとう孤独に飲まれちゃって、そんな行動に出たわけだ。世間から見て、頭がおかしいのはどっちだろう? 朝倉さんか? それとも周囲の人間? それで―――偶然再会した僕の携帯を盗んだ。何を期待してたのか知らないけど。藁を掴む思いだった? それで何かが『変わる』と思った?」
「…………」美佐奈は顔面蒼白になって完全に沈黙した。
容赦なく僕は続ける。「引っ越しというのも、嘘なんだろう。金がないのは、クスリにつぎ込んだせいだ。違う?」
「…………」美佐奈は何も、言わない。
「携帯、返してくれない?」
「……あなただって、『気づいた』んでしょう? だから、もう、あなたも『こっち側』だよ」
「言ってる意味が分からないよ」と僕。だがそれは嘘だ。
美佐奈は携帯をテーブルの上に置いた。紛れもなく僕のものだった。「この携帯、無いと困るでしょう? ねえ、だから―――」僕に、美佐奈は両手を差し出す。露出した手首の『それ』には、見ない振りをした。「私と一緒に、来て」
来て? どこに? 僕は彼女の言った意味がよく分からなかった。だが―――今彼女の手を取ってはいけない気がした。薬物中毒で挙動不審でちょっとかわいい元同級生の朝倉美佐奈が僕をどこに導こうっていうのだ? きっとそっちへ行ったらもう戻っては来られない。そんな、予感。しかし―――戻る? どこへ? 僕はもう『踏み外す』覚悟は出来ていたし、その一歩はもう踏み出してしまっている。今更どこへ戻るっていうんだろう。
「お願い……」かすれた声で彼女は呟くように言った。
どういうわけか僕の怒りはすでにどこかへ行ってしまっていて、波の穏やかな海のように静かな気分だった。彼女は僕を見つめ、手を差し伸べている。きっと、これが一方通行の入り口。そちらへ行ってしまえば、もう後戻りは出来なくなる。
そして、
僕は朝倉美佐奈の小さく冷たい手を握ってしまった。