夜だった。湿った草木の匂いと虫の声。今日は月が明るい。純度の高い闇にささやかな光が注ぐ。天を満たす星空。古びた夜の校舎。
軽トラックのガソリンは残り少ない事に気づく。今は鍵だけ差してエンジンはかけていない。僕は運転席、美佐奈は荷台に座って星を眺めている。静かな夜だ。すこし冷える。負傷した僕の右腕には美佐奈のハンカチが縛ってあって、とりあえず血は止まっている。
僕が校舎から出てきたとき、美佐奈はトラックの荷台で眠りこけていた。彼女は僕とはぐれてからずっとここで待っていたのだ。僕の傷を見て、美佐奈は驚いた。
「どうしたの、その傷」
「割れたガラスで、切れたみたい」僕は嘘をついた。「あんまり深くない。大丈夫だよ」
「雉間《きじま》君、いた?」と美佐奈は訊いた。
「いや……いなかった」もっとも、違う奴はいたが。
多分この学校は―――そういう場所。そういうモノを呼び寄せてしまうんだと思う。あの少年や、この僕のようなモノを。だが、雉間は見つからなかった。
カッターナイフを持った、あの少年。彼は一体何だったのだろう。彼はどういう経緯で久の江にやってきたのだろうか。僕はもう少し話を聞いてみたかった。しかし……僕がトイレを出たとき、彼はトイレの中で「糞ッ垂れ!」と叫んでいなくなった。遠くで何かが落ちる音を聞いて僕はトイレに戻ったが、そこに彼の姿はなく、あのピルケースだけが落ちていた。窓が開いているのに気づいた。彼はそこから飛び降りたのだ。四階のトイレの窓から。
それから僕はしばらくエンジンもかけずに運手席に入って座っていたが、星はあまり見えないし、体勢も心地よくないので、車を降りて荷台に飛び乗った。美佐奈の隣に座って星空を見上げる。荷台はとても冷たかった。
「もうちょっとこっち来ていいよ」美佐奈は手をひらひらさせて、おいでおいでのポーズをする。「寒いから、くっついていようよ」
僕は美佐奈にすり寄った。僕の左肩が美佐奈に触れる。その触れた部分がじんわりとあたたかい。すると美佐奈はさらにぐいぐいとこちらに体を寄せた。もう体がびったりと密着する。
「帰ろう」僕は言った。
「どこに?」
「あの丘の家に」僕は指を差そうかと思ったが、校舎が視界を遮っていて丘が見えない。「カレー、食べなきゃ」
「一緒だよ」枯れそうに小さな声で美佐奈は言った。「帰っても、帰らなくても。食べても、食べなくても」
「そう?」
「私は、こうしてたほうがいい」と言って美佐奈は僕の肩にその小さな頭を載せた。
「誰かに見られるのが嫌だったんじゃないの?」僕は意地悪っぽく言った。
「馬鹿……」
僕たちはトラックの荷台で抱き合った。氷のように冷たくでこぼこした鉄板の上で、星空の下で。声を上げ涙を流す代わりに、お互いの持つ熱を狂おしく求めて。美佐奈はあたたかく僕を受け入れた。僕は必死に腰を動かした。車が揺れるほど激しく。そうしてないと泣いてしまいそうだったから。
暗い暗い田舎道を走って丘の家に着いた頃にはもう夜は深くなっていた。大きな鍋に冷たくなったカレーがあった。僕にはどういうわけか、そのカレー鍋だけが僕たちの生きている証拠のように思えた。僕たちは火をおこしてカレーを温め、おたまですくって交互に食べた。米は無い。カレーはちょっと水っぽかった。おいしいね、と美佐奈は笑っていた。
僕たちは閉め切った和室に閉じこもって、布団もないので寄り添って眠った。隙間風が染みるように寒い。古い畳の匂い。僕は美佐奈のアパートを思い出した。
十月二十五日、晴れ。
今日も地震は来ない。