美佐奈の部屋は狭かった。今時珍しい1Kの四畳半で、エアコンは無く、勉強机と布団があるだけだった。本棚はなく、机の上にも電気スタンドひとつしか載っていない。極端に物が無く、生活感がまるで感じられなかった。日に焼けた畳の匂いがした。
「おととい引っ越したの、ここに」と美佐奈は言った。
引っ越しをしてきた割には荷物がほとんど無い。
「前はどこに?」
「南三ツ坂」
それはここから五キロも離れていない場所だった。
「どうして引っ越したの?」
「三ヶ月経ったから」美佐奈はそう言ってから、すこし笑って見せた。「ごめんね、本当に何もなくて。途中でお茶でも買って来ればよかったね」
僕は首を横に振る。「いや、いいよ」
彼女は自分の部屋に帰ってきて、随分落ち着いた様子だった。あのとき美佐奈に手を引かれ、どこに連れて行かれるのかと思ったら、彼女の部屋だったというわけだ。あのマクドナルドから歩く三十分の間、お互いに一言もなかった。
「お金ももう、全然残ってないから、新しいバイト見つけなくちゃ……」
「バイトは何をしてたの?」
「引っ越す前までは、ゲームセンター。その前は、コンビニ。その前は、居酒屋とか、ビル掃除とか、交通整理とか……。あと、何やったかな。あんまり覚えてないや」美佐奈は冗談っぽく言った。「何でもやったよ。夜のお仕事以外なら」
僕たちは畳の上に座って向かい合っていた。僕は壁にもたれてあぐらをかき、美佐奈は部屋の真ん中あたりに座ってこちらを見ている。
「やっぱり外いこ」と美佐奈は突然立ち上がる。
「え、何?」僕は彼女を見上げる。
「携帯」美佐奈は思い出したように、ようやく携帯を僕に手渡した。「返すよ……ごめんね、色々と……」
美佐奈の部屋から五分ほど歩いて、コンビニにたどり着いた。その間もやはり僕らは無言だった。彼女は何を考えているのだろう……。
「これからどうするの?」バイト情報誌を立ち読みしながら美佐奈は言った。
「これから?」その隣で漫画雑誌を読みながら僕は訊き返す。
「学校とか……」美佐奈は僕の方を見る。「行かないの?」
「うん」僕は頷く。「もう、そんな気分にはなれない」
「まだ……、戻れるよ、きっと。それに、戻った方がいいと思う」
「変なことを言うね」僕は笑った。「こっちに来いって行ったのは、朝倉さんでしょ?」
「そうだけど……」
「それにね、僕はもう、踏み外す覚悟が出来てたんだ。朝倉さんに会う前から、もう、まともじゃなかった。気づいちゃったから」
美佐奈は、ちょっとだけ悲しそうな顔で、下を見ながら笑った。
「何?」と僕。
「なんだか、不思議だなと思って」美佐奈は言った。「二年前まで、私たち、普通に学校に行って、何の疑問も持たずに、当たり前に生きてたんだよね。それが、どうして……こうなっちゃったのかな」
「そうだね」僕は呟いた。漫画雑誌を棚に戻す。
美佐奈はバイト情報誌とガムを買った。僕たちはコンビニを出て歩き出す。
「学校って、繰り返しの象徴みたいなところでしょ?」美佐奈は突然切り出した。「毎日通って、勉強して、同じ友達と喋って、同じ話題で笑って、毎日毎日毎日毎日……おなじ事の繰り返しで。目が回るほど忙しくて、吐き気がするほど退屈で……」
「学校だけじゃない」僕は補足した。「全部、そうだ」
美佐奈は俯く。「時間が追ってくるの。私の通った道を、壊しながら追いかけてくる感じ。分かる?」
僕は黙って頷いた。
「このままじゃ駄目だって、思った。コピーして貼り付けたような、錯覚みたいに同じ毎日を繰り返して、繰り返して……それが正しいことだ、って教えられて、そう思いこんで。だんだん頭が腐っていくのに気づいたの……。勉強すればするほど。愛想笑いする度に。洗脳されたままこんなふうに生きていくのなんて、死んでるのと一緒だよ」暗い声で、美佐奈は呟く。「私は結局、みんなみたいにはなれなかった。みんなと同じ振りをして生きてきたけど、私にはみんなが何で笑ってるのか分からないし、どうしてみんなは外の世界のことに頭が及ばないのかも分からない」
「外の世界?」僕は訊いた。
「学校の外。みんな、学校が世界のすべてだと思ってる」
「そう思わせるのが学校の役目だからね」
「毎日おんなじことをやらされて、自分たちが生きてることとか、そういう大切なことはなにもかも隠蔽されて……」美佐奈は強く言った。「だから私は学校を辞めたの。私の正しさを証明するために」
「…………」僕は何も言わなかった。
僕は一旦家に帰った。夜の七時。両親は仕事でいない。僕は誰もいない静かな家に上がって、ひとりボストンバッグに服を詰め込んだ。すると、それまで穏やかだった気持ちが、一転、深く沈み始めた。胃のあたりが鉛でも飲んだかのようにずんと重たくなって、僕は吐きそうだった。目が熱くなって涙が出てきた。何の涙なのだろう。原因は僕には分からなかった。感情の波がどんどん大きくなってきて、僕の涙は止まらなくなった。僕は物心着いて以来初めて大声を上げて泣いた。自分でも自分の泣き声が喧しかった。
一通り泣いて、次第に気持ちが晴れてきて、涙は止まった。洗面所で顔を洗って、バッグを担ぎ、家を出た。