因果の部屋 (1)
theroomoftheloop

 初めは、水道の蛇口だった。
 それは少しかために閉じてあり、もしくは前回閉められてから時間がたっており、力をこめて開くと、ぎーぎーという音がした。
 しかし、いくらひねっても、一向に水の出る気配は無い。

 ―――あれ、まだ水道は来てないのか。

 今日の昼、僕はここに引っ越してきた。
 大学に合格したら一人暮らしをさせてもらえる、という条件があったから、僕は必死になって勉強した。
 狭いボロアパートだが、バス・トイレ付きで月々30000円。
 学校まで徒歩20分であることを除いたとしても、これは破格だ。

 僕は合格してから一週間、学校の周りの物件という物件を、大量の情報誌と共に歩き回った。
 そしてようやく見つけたのがこの部屋だったのだ。


 古い畳のにおいは嫌いじゃない。
 小さいころよく友達と忍び込んだ公民館の集会室を思い出させる。
 ダニがたくさん居そうだが、これは明日バルサンでも買って来よう。

 布団も敷かず、未開封のダンボールに囲まれ。

 部屋の真ん中で、寝転がったまま。
 さすがに昼からずっとこうしていると、腹が減ってくる。
 そう考えていると、おなかがぐう、と相槌を打つように鳴った。


 何かきっかけが起こるまで動くまい、と意味も無く自分に言い聞かせていた。
 これは僕の昔からのクセのようなものである。
 そして今、空腹という原因によって起き上がるという結果を導いた。


 最小限にまとめたつもりの荷物たちを見る。
 およそ食べ物と思えるような物は何も入ってはいない。
 それでももしかしたら、とダンボールを片っ端からあけてみることにする。

 引越し業者のネーム入りダンボール。
 それの上部をかたくガムテープが封印している。
 僕はガムテープというものの粘着力を今日まで侮っていたかもしれない。

 爪を立ててガムテープの端をカリカリと起こす。
 やっと手でつまめる程度の面積ができると、それを親指と人差し指でしっかりと掴んだ。
 しかし軽く引っ張ってみたところ、そう簡単にはがれる代物ではないことが分かる。

 受験勉強で鉛筆しか握ってなかったから、筋肉が退化してしまったのかもしれない。

 僕は勢いをつけて思いっきりガムテープの端を引っ張った。
 すると、ガムテープのギザギザになっている切断部分から裂けてしまっただけだった。

 ―――はあ。

 しょうがなく、爪を刃物に見立てて、ガムテープをダンボールのラインに沿って切り開けた。
 爪の中にダンボールのカドが当たって痛い。

 やっとの思いであけたそれに入っていたもの。
 やかん。
 なべ。
 ハンガー。
 スプーン。
 携帯の充電器。
 髭剃りの替え刃。
 原付のネット。

 なんて脈絡の無いラインナップなんだ。
 そして口に入れられるものは何も無かった。
 決して期待はしていなかったが、何も考えずに荷物を詰め込んでしまった自分のこういうところに情けなくなる。

 このアパートは家からさほど遠くはないので、いつでも取りに帰られるということもあったが、
 この荷物をまとめている間中、一人暮らしができるという長年の夢がかなう嬉しさで、頭がいっぱいだったのだ。
 こんな風に、引越しの準備がおろそかになるくらいに。


 こうして僕は荷物の中から食料を見つけることは諦めた。
 とりあえず水でも飲んで腹を満たそうと考え、この傷だらけのステンレスの流し台に向かったのだ。

 水は、一滴も出なかった。

 水道はいつから使えるのだろう。
 ということはまだ風呂も使えないのか。
 僕は毎日風呂に入らないと気がすまない性質なので、このまま明日を迎えるのはどうも気持ちが悪い。

 窓の外は、もう真っ暗になっていた。

 ―――ここから5分も歩けば、銭湯がある。
 部屋探しに何日も歩き回っているうちに、この辺りの地理には結構詳しくなってしまったのだ。

 水道が出るまで、そこの銭湯を使うとしよう。

 銭湯には何を持っていけばいいんだっけ。
 財布。洗面器。シャンプー。タオル。着替え。

 財布は、昨日からずっとズボンのポケットに入っている。
 洗面器もシャンプーも、銭湯に行けば置いてある。
 タオルも向こうで買おう。
 着替えは……。

 僕は部屋中に積まれている未開封のダンボールの山を見渡した。

 着替えは……今日はこのままで我慢するか。

 サンダルを履いて、玄関のドアノブに手を伸ばす。

 そして、ノブに手をかけ、

 握り、

 右方向に、

 ひねった。

 ザアアアアー。

 水が噴き出す音。
 それが流し台の水道からのものだと気付くのに時間はかからなかった。

 サンダルを脱ぎ捨て、あわてて流し台に走り寄る。

 ―――今やっと、水道が使えるようになったのかな。

 僕はさっき水を飲もうとして、蛇口を開いたままにしていたのだ。
 そうだ、僕は水を飲みたかったんだ。

 ぐび。ぐび。ぐび。

 勢いよく流れる水に顔を近づけ、水を思いっきり飲む。
 ついでに顔も洗った。

 ふう、と一息。
 水道が使えるようになったのなら、銭湯に行く必要も無い。

 僕は蛇口をひねって、水道を、止め……

 ―――あれ?


 いくら蛇口を絞っても、水の勢いはまったく変わらない。
 僕は焦る。
 右にひねっても、左にひねっても同じだった。

 自分の額に冷汗が流れるのが分かる。

 ―――くそっ!

 蛇口をめいっぱい絞ったとき、部屋がふっと暗転した。

 ―――停電か!? よりによってこんな時に……!

 真っ暗な部屋に、勢いよく流れる水の音だけが響く。

 ―――はあ。なんだかなあ……。

 どうすることも出来ず、台所にそのまましゃがみこむ。
 夢にまで見た一人暮らし。
 毎日のように友達を呼んで、彼女に料理作ってもらって、遊びきれないほど遊んで。

 どんなに遅く帰っても、誰にも文句は言われない。

 どんなに夜更かししても、誰にも怒られない。


 僕はいま知った。
 誰にも縛られないというのは、誰にも頼れないというのと同じ意味なのだと。

 孤独。
 そう、孤独。

 ―――ゼツボウテキナサミシサ。

 はじける水の音。
 何度目かのため息をつく僕。


 そのとき、ドアは突然開いた。

「じゃーん! 差し入れ持ってきたぞーっ! って、うわ、真っ暗……。ちょっと、そんなとこで何やってんのよっ」

 聞き覚えのある声。
 その温度は、カラダに染み付いているから。

「電気つけていい? スイッチどこ? うー、暗くてよく見えない……」

 ああ……。
 孤独じゃない。
 僕はひとりじゃない!

「ユカっ!」
 彼女のそう叫ぶや否や、走った。
 ダンボールの山につまづき、転び、飛び込み、彼女の細い両足につかまる。

「うわっ……ちょ、ちょっと!?」

 彼女はそれを支えられなくて、ドアを背に倒れ込んだ。
 ふわっ、と。
 よく知っている、やわらかい身体。

「ご、ごめん」
 慌てて起き上がり、ユカの手を引いて体を起こす。

「いたた。もう、突然一人暮らしするなんて言い出すから来てみれば……」

 ユカは玄関の左手にあった照明のスイッチを見つけ、それを押す。

 が、明るくなる気配は無い。

「あれっ、点かないよ」
「……やっぱり。停電なんだよ、多分。さっきまで点いていたのに、突然消えたんだ」
「停電? そんなのおかしいわよ。隣の部屋も、その隣の部屋も明るかったのよ?」

 となると、この蛍光灯はもう駄目になってしまったのだろうか。
 覚えておこう。明日買ってくるものは、バルサンと蛍光灯。
 それにしても、蛍光灯というものはその寿命が尽きた時、あんな風に突然消えるものだっただろうか。

「まあ、上がってくれよ。何も出せないけど」
「あ、うん」

 ユカと僕は、向かい合って畳の真ん中に座った。
 暗がりの部屋、ダンボールの山に囲まれて。

 ザアアアアー。


「……ところで、さっきから凄い勢いで流してるあの水は何なの? なにかの儀式?」
「どこの国にそんな儀式があるんだよ。あれは、突然噴き出したまま止まらなくなったんだよ」

 驚いた顔をする彼女。

「なによそれ。ポルターガイスト?」
「怖いこと言うなよ……」

 それでも、水道の事といい、蛍光灯の事といい、立て続けに起こるということは何か悪い霊にでもとりつかれているのかも知れない。

「最初は、水を飲もうとしたんだ。でも蛇口をひねっても水は出なくて。
 水が出ないならシャワーも浴びられないだろうから、銭湯に行こうとしたんだ」

 ふんふん、と興味深そうに相槌をうつユカ。

「で、部屋を出ようとしたら、突然水が噴き出して。
 慌ててそれを止めようとしたら、今度は電気が消えちゃった。途方にくれてたところに、ユカが来てくれたんだ」

 彼女は、うーん、と腕を組んで考え込む。
 難しそうな顔をして、黙り込んでしまった。

 ザアアアアー。

 突然立ち上がり、玄関に向かうユカ。

「……ユカ?」

 僕も立ち上がる。
 彼女が何をしようとしているのかさっぱり分からない。
 まさか、僕に愛想をつかして帰ろうとしているんじゃないだろうか。

 ザアアアアー。
 ザアアー。
 ザァ…。
 ……。

 ずっと部屋を満たしていた、あの水の音が消えた。
 何が起こったのかは分からないが、不安の源が消えたことによって安堵が訪れたことは確かだ。
 それだけのことが、たまらなく嬉しかった。

「やっぱり……」
 ユカは自分を納得させるような口調でそう言った。

「なんだよ。何をやったんだよ」
「あたしは、ノブをひねっただけ。……信じられないけど、それで水は止まった。これが何を意味してると思う?」

「何って……。全然分かんねえよ」
「それもそうよね……。じゃあさ、水道の蛇口を開けてきてもらえる?」

 僕は何がなんだか分からないまま、足元のダンボールを避けながら台所に向かう。

 そして、かたく閉めた蛇口を開ける。
 やはり、水は出てこない。
 ―――が。

 チカチカ、と、頭上が光る。
 見上げると、寿命が来たと決めつけていた蛍光灯が、白く光っている。
 薄暗闇だった部屋は、急に明るくなった。

「あれ? 点いた……」
 自分でも間抜けとしか言いようの無い声を出した。


「ねっ。明るくなったし、水も止まったし、これで元通りだよ」
 ユカはにっこりと。

「ああもう、ちゃんと説明してくれよ!」
「説明も何も、あたしにも全然分からないわよ。ただ、水道を使うにはドアノブをひねる。電気を点けるには蛇口をひねる。それだけは分かった」

 徹底した現実主義者であるユカの言葉とは思えなかった。
 それが、あまりに非現実的だったから。

「なんだよこの部屋……絶対おかしいよ……」
 アタマを抱えてうずくまる。
 だったらなにか? 水道を使おうとするたびに玄関まで往復しろと言うのか?
 馬鹿馬鹿しい。
 そんなことはあり得ない。

「ほら、弱音吐いてても仕方がないでしょ。第一、ここを選んだのはあんたなんだから」
「そんなこと言ったってなあ……」
「もうっ。まあ、無理も無いか。今日はここに泊まってってあげるから、明日になったら一緒に不動産屋に文句言いに行きましょ」

 しっかり者のユカだが、これほどまでに心強いと思えたのは初めてかもしれない。
 ユカの後ろから、後光がさして見える。

「ユカ……。ありがとうな。お前が来てくれなかったら、俺は今ごろ……」
「暗闇の中で水道代の計算でもしてた?」
 ユカは面白そうにそう言って笑った。

「あ、ちょっとまってね。泊まるつもりで出てきたけど、一応家に電話しないと」
 持ってきたバッグから携帯を取り出し、電話をかける。

「……あれ?」
 なにか異変に気付いたらしく、彼女は携帯の液晶を見た。
「な、なんでこの部屋は圏外なのよ……」

 両隣の部屋にも人が住んでいるはずなのに、
 おかしくなりそうなほど静かな夜だった。