因果の部屋 (3)
theroomoftheloop

 この部屋に来て、二日目の夜がやってきた。相変わらず、なにひとつ口に入れていない。空腹感には波があって、空腹に襲われる数分を乗り切れば、またしばらくは耐えられる。そしてその繰り返しだった。無駄なエネルギーを消費しないように、ユカも僕も、すっかり黙ってしまっていた。ユカはさっきからずっと横になっている。眠っているのだろうか。寝返りも打たずに壁の方を向いたまま、小一時間そのまま動いていない。

 突然、ユカはむくっと立ち上がった。眠っているわけではなかったらしい。すこし、顔色が悪いように見えた。
 立ちくらみをおこしたのか、しばらく壁に手をついてうなだれていた。無理もない。彼女だってなにも食べていないのだ。

「大丈夫か?」
「……うん」
 ユカは鼻の詰まったような声で答え、たよりない足取りでトイレに向かった。そして空白の時間。僕は気晴らしにテレビをつけた。外から持ってきたテレビは本来通りに動くので、それを見ているだけでも安心感がある。この異常な部屋の中では。

「―――て」

 トイレからユカの声が聞こえたが、よく聞き取れない。

「なに?」
「流して、水」
「あ、ああ。そうか」

 トイレの水はトイレの中からでは流せないことを、僕はようやく思い出した。今朝ユカが書いた『メモ』を取り出す。


  トイレ(小)→玄関の電気スイッチ
  トイレ(大)→シャワーの栓


 相変わらず、きれいな字だった。テストの前になるとよくノートをコピーさせてもらっていたことを思い出した。しかし―――。

「え、えっと……『どっち』ですか?」
「……」

 やばい、ちょっと機嫌が悪そうだ。

「玄関の方」
 と、ユカは作ったような冷静さで言った。僕は玄関に飛んでいき、電気のスイッチを押すと、トイレの方から水の流れる音が聞こえた。
 考えてみれば、水を流すだけならトイレから出てきて自分で流せばいいような気もするが、女の子にそのあたりのことを問うのは野暮というものだろう。

 ユカはトイレから戻ると、また元いた場所に、こちらを向いて座った。

「あたし、思うんだけど……。考えられることは今のうちに考えておいた方がいいよ。このままの状態が続けば、多分、あたしの頭がまともでいられるのはそんなに長くない……と思うから」

 僕は驚いた。ユカの言葉にはもちろんショックを受けたが、それだけではなかった。ユカに頼り切っていた自分を改めて思い知らされたからでもあったのだ。ユカは僕よりもこの状況を深刻に捉えていた。その彼女が、弱音を吐いた。いや、弱音なんかじゃなく、彼女がとらえた『現実』なのだ。そしてそれは、『いつかは出られる』という僕の楽観的な認識の、その終わりを告げる言葉でもあった。

 どうにかしないと―――。僕は部屋を見回す。そして、あるものを発見した。

「そうだ、『窓』があるじゃないか。窓を割って、そこから出るんだ。ここは二階だけど、きっと何とかなるよ」

「―――残念だけど、それは無理よ」
「どうして?」

「今朝、確かめたの。あの窓はもちろん開かなかったし、叩いた手応えも、あの『壁』と同じだった。多分、壁への衝撃がまるごと他の現象に転移してると思う……。『壁』や『窓』が振動しなければ、中で叫んだところで音は外に伝わらないのよね……。
 窓を叩いたことによって『何が起こったか』は、やっぱり分からなかったけど」

「そうか……。なあ、そういう『行方知れずの現象』は他に何があった?」
「『行方知れず』……その表現はいいわね。まず、『壁』と『窓』でしょ。他は―――」

 ユカは、足下の畳を叩いてみせた。どん、と鈍い音がしたが、それは畳と拳がぶつかった音であって、下の階に音が反響している感じではなかった。これではいくら暴れたところで、下の階に音は伝わらない。

「今のところ、このくらいかな」

 僕は積んだままの段ボールからスニーカーを取り出し、それを真上に投げ上げた。靴は天井にかつんと音を立てて当たり、僕はそれをキャッチした。

「天井も、そうみたいだな」
「……まるでこの部屋全体が、あたしたちを外に出すのを拒んでいるみたい―――」
「……」

 僕はどうしようもなくて、テレビに目をやる。日曜日のゴールデンタイムということもあって、どの局もバラエティ番組をやっている。いつもは楽しみにしている番組であっても、それは―――『外』の世界のことだった。この部屋に閉じこめられている僕らをおいて、『外』の時間はこうしている間も進んでいるのだ。

 僕らはぼんやりとテレビを眺めていたが、しばらくしてユカはまた力無く寝ころんだ。

「ごめんなさい、あたし、ちょっと気持ちが悪くて……。すこし眠るね」

   *

 夜は更けていく。
 この異常な事態のなかでも、出来る限り文化的な生活をしようと思い、僕は風呂を沸かすことにした。ユカのためにも、あたたかい風呂は必要だ。ユカはきれい好きだし、体を温めて眠ればすこしは体もよくなるかもしれない。

 浴槽に水を張るには、洗面所の蛇口をひねればいい。お湯をためたいのなら、赤いマークの方の蛇口だ。これは他の『歪み』に比べればわかりやすい方だし、洗面所と浴槽は間取りが隣り合っているのでそれほど不便は無い。
 慣れとは恐ろしいもので、この奇妙な部屋の仕組みだって、何をすればどうなるかを覚えてしまえば困ることは何もないのだ。
 ただ―――『開かないドア』、『行方知れずの現象』……まだ僕たちはこの部屋の『歪み』をほとんど理解できていない。
 僕たちは部屋の異常の原因を『因果律の歪み』であるとして考えているが、これだって仮定にすぎないし、例外の現象が出てきてしまえば簡単に崩れてしまう、砂上の論理にすぎない。
 それに、ドアや窓、壁に至るまで、外界へ繋がる部分へのアプローチはことごとく吸収され、『行方知れず』になってしまう。これは『因果律の歪み』で説明できるかどうかは怪しい。もし因果関係が他の現象と『入れ替わっている』だけだとしたら、『ドアを開ける方法』は存在する。しかし、もしもそうでないとしたら? 『行方知れずの現象』は、本当は『行方知れず』なのではなく、そんなもの『無い』のだとしたら?

 だがそれは、『ドーナツの穴はあるのか無いのか』という議論と同じくらい不毛で詮無い考えだ。そんなことをいくら考えたってしょうがない。仮定を否定しきれる根拠がない以上、僕たちはこの仮定に従って動くほかないのだ。

 浴槽に湯が溜まっていくのを見ていたとき、何度目かの空腹が僕を襲った。浴槽に注がれる湯は静かにかさをふやしていく。
 そう―――この部屋にはかろうじて、飲み水がある。水だけでも飲んでいれば、人間は命をしばらくつなげることが出来るらしい……いつかテレビで見たことがある。
 僕はその湯をすこし両手ですくって、口に入れてみた。口腔に味のない甘みが広がる。食道を通って胃に流れ落ちていくその温かさに、僕は虚しいかなしさをおぼえた。

 疲れと空腹のせいか、僕もなんだかすこし気分が悪くなってきた。こんな時ははやく風呂に入って寝てしまおう。ここから出る方法は明日、また考えればいい。僕まで滅入ってしまっていては、共に頑張ってくれているユカに申し訳が立たない。


 そして湯が溜まり、僕は浴室を出る。
「ユカ」

 小さな体をたよりなく『く』の字に折り曲げ、ユカは寝息をたてている。
 こんなことにユカを巻き込んでしまうなんて……。ユカは家族と暮らしているから、その家族もきっと心配しているに違いない。

「風呂、沸かしたよ」
「……」

 反応がない。もう眠りの底に落ちているらしい。僕はユカを揺り起こそうとは思わなかった。
 だが……なにか、様子がおかしい。よく見ると、ユカは顔を青くし、苦しそうに息をしている―――。

「ユカ! おい!」
 駆け寄り、ユカの元にしゃがむ。そのとき僕はやっと気づき、同時に自分の愚かさを悔やんだ。『ユカの体調が悪い理由』を、どうして今まで気づくことが出来なかったんだ。

「しっかりしろ!」
「……んん……」

 ユカはゆっくりと目を開け、僕はすこし安堵する。それでも『状況』は続いている。まだ気を許すことは出来ない。僕はユカの膝の裏と背中に腕を通して、抱き上げた。

「え……ちょっと」
「高いところだ。どこか『高いところ』じゃなくちゃいけない」

 起き抜けのユカを持ち上げたまま、部屋を見回す。ユカが横になれるくらいの広さで、ある程度の高さがある場所は……。

「押し入れ、だ」
 僕はその押し入れの戸を初めてあける。ちょうど、あの猫型ロボットが棲んでいそうな押し入れだ。中板は古くて底が抜けそうだが、ユカのこの軽さなら大丈夫だろう。僕はユカをその中板の上にそっとおろした。

「なによ……急にどうしたのよ。わけが、わからないわよ」
 辛そうに、眉をひそめて肩で息をしながらユカは言った。

「ちょっと待ってて。理由は後で説明する。急がなきゃ……かなりやばいんだ」

 僕はまずティッシュを一枚とりだし、それを固くひねって『こより』を作った。そして大急ぎで風呂場に向かい、湯船でこよりの先を軽くぬらし、すこし絞る。それを持って、僕はキッチンへと向かった。

 そこで探したものは―――『ガスの元栓』だ。
 それは足下に見つかり、小さく気の抜けるような音を立てている。これが、『元凶』だ。僕は素早く『こより』をその穴に詰め、ガムテープでぐるぐる巻きにして固定した。

   *

「じゃあ、あたしだけずっと『ガス』を吸っちゃってたってこと?」
「どこかで聞いたことがあるんだ。都市ガスは空気より軽いけど、このアパートはプロパンガスだから比重は空気よりも重い―――」
「ずっと畳の上で横になってたあたしは、沈殿したガスを吸っちゃってた……。それで、キッチンから遠いところに座ってたあんたは比較的大丈夫だった、ってわけね」

 僕たちは、今度こそ本当に、まずいことになっていた。この部屋が密室であることはすでに痛いほど理解していたのに、その中においては『空気が有限である』ことを見落としていた。この見落としは、あまりにも大きすぎる。『ガスの漏洩』によって、空気のすべてを自由に出来るわけではなくなったこの状況は、未然に気づいて回避されるべきものだった。
 この部屋の中の酸素は、一週間かかっても吸いきれるものではないだろう。しかしこうなってしまっては、飢えの前に窒息の心配をしなければならなくなった。
 また、僕たちの不自由の中に『行動の制限』が加えられてしまった。むやみに歩き回ることは、足下に沈殿しているガスを撒き上げてしまうおそれがあるからだ。

「ガスの元栓がなぜ開いたか―――その『原因』はまだ、分からないんだよな?」
「うん……。朝、あたしがいろいろ調べ回ってたときにきっかけを起こしちゃったかもしれないし、壁とかを叩いたとき『行方知れず』になってた『結果』のひとつが、これだったのかもしれない。まだ、何ともいえないわ」
「そう、だよな……」

「本当に、あたしとしたことが、迂闊だったわ。鼻が詰まっていて気づかなかったなんて……。気持ち悪い……吐きそう……」
「まずいな。新鮮な空気を吸わないと。締め切っていた風呂場なら、まだ空気がきれいかもしれない」

 僕はユカを運ぼうとしたが、ユカは「自分で歩けるから」と断った。しかしその足取りはやはり頼りないものだった。

   *

「あたし、横になりながら、ずっと考えてたの。行方知れずの現象について―――それから、『因果という現象』そのものについて」
 風呂上がりのユカは、押し入れの中に座ってつぶやくように言った。そしてそれは、穏やかではあったが、決して明るい表情ではなかった。それはまるで、絶望を語っているかのような―――。

「結論から言えば……中からあのドアを開ける『結果』は、『ある』」
「え……じゃ、じゃあ、出られる方法が―――」

 僕の目の前には希望の光がさしたような気がしたが、しかしユカの表情は、相変わらず曇ったままだった。

「聞いて。『ドアが開く』っていう、『行方知れず』の結果は、どこかに消えてしまった訳じゃなくて、確かに『ある』の。だけど……無理なのよ……。あたしたちは、どう頑張ってもそこにたどり着くことは、出来ないの」