02 邂逅 1
encounter

 僕が持っている美佐奈についての記憶のうち、最も古いのは中学一年生の頃だ。そのころの美佐奈は今の姿からは想像が出来ないほどまともだった。普通を絵に描いたような少女だった。特別に目立つところがなかったけど、勉強も運動もそこそこにこなしていたと思う。あか抜けた性格ではないが決して暗くはなく、友達が少ないという感じでもなかった。多分僕以外の誰もが、彼女については同じ印象を覚えていたと思う。普通の女子。学校という集団の中には、彼女と同じような記号で記述できる人間がむしろ多数派だった。普通でない人間なんてなかなかいない。僕はもちろんそれが悪いことだとは思わなかったのだけど……。殆ど言葉を交わすこともなく、僕たちは中学を卒業していった。そして高校生になった。僕の中学から僕と同じ高校に進学したのは、僕ひとりだと思っていたが、しばらくして、もうひとりいるらしいということを伝え聞いた。それが美佐奈だった。美佐奈は高校に入ってから性格も見た目も少し明るくなって、学校ではうまくやっているようだった。友達も増え、男子生徒の評判では『目立たない女子』から『中堅クラスの女子』に昇格したようだった。二年生になって彼女は突然学校をやめた。理由は分からなかったがいろいろな噂が立った。噂が一通り流れ終わったころに僕らは美佐奈のことを順々に忘れていった。
 美佐奈が高校をやめて一年以上経って僕が三年生になって夏が来て受験生になって、毎日が勉強詰めで色んな事が見えなくなっていて、ある日授業をサボって学食に行くと、そこで中退したはずの美佐奈を見つけた。美佐奈は制服姿に深めのニット帽に大きなサングラスという珍奇な格好をして素うどんを一人ですすっていた。混雑のピーク時を過ぎた昼の二時で、店内は閑散としていた。僕は遠目に彼女を見ながら、カウンターで定食を注文して、少し悩んでから、勇気を出してテーブル越しに美佐奈の対面に立った。
「朝倉さん」と僕が声をかけると美佐奈はうどんを派手に吹き出した。気管につゆが入ってしまったのか苦しそうにげほげほとむせていた。「大丈夫?」と言って僕は台ふきでテーブル上に飛んだ麺を処理して、彼女の対面の席に座る。
「あ、あ、ごめんなさい、げふげふ、ごめんなさい。というか、人違いです。アサクラではありません。ですから、それもごめんなさい」とよく分からないことを言った。学校を中退したはずの彼女は、別の理由でこの場に浮きまくっていた。この進学校でニット帽をかぶったりサングラスを付けたりしている生徒なんて異様すぎるし、よくここまでたどり着けたなと思う。先生に見つかれば一発でつまみ出されるに違いない。彼女は僕を避けるようにせかせかと残りのうどんに取り組み始めた。僕も定食のエビフライをつまむ。
「朝倉さん、学校をやめたって聞いたけど?」
「あ、アサクラさんというひとは学校をやめたようです。でも、私はそのアサクラさんではないんです。ほんとです」どうやら彼女の妙な格好は変装のつもりだったようだ。サングラスはうどんの湯気で曇っていた。
「どうしてこんなところに?」
「学食は、安くておいしいです。素うどん二百円です」
「お金が無ければ、家で食べれば?」
「家……」美佐奈は箸を持ったまましばらく停止した。何かを考えているのだろうか。少しして、思い出したように残りのつゆを全部たいらげて丼を空にした。「ごちそうさまでした。それでは私はこれで」
「ああ、うん。それじゃ」僕は早急に立ち去ろうとする美佐奈を横目に、自分の定食を食べるのに集中した。しかし美佐奈は一度持ち上げたトレイを、またテーブルの上に置いて元の席に戻った。不可解な行動だった。
「どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもありません。気にしないでください」
「そう……」僕は彼女の言うとおり気にしないことにした。しかし既に素うどんを間食したのにもかかわらず対面に座って僕をじっと見る彼女の姿で、僕は否が応にも察した。僕に構って欲しいのではないのだろうかと。何か話しかけた方が良いのだろうか。
「今何してんの?」と僕は訊いた。直球すぎただろうか。しかし他に思いつく話題といえば何で学校をやめたのか、とかそういうクリティカルな話題になってしまうのでまあ無難なところだったと思う。案の定質問に怯む様子もなく彼女は明るく答える。
「アルバイトです」
「へえ、何の」
「いろいろです」
「なるほど」
 会話終了。僕はなんだかめんどくさくなってエビフライ定食に集中することにする。前方からの視線が妙に気になるといえばなるけども。そんなこんなで僕は定食を食べ終わってしまって湯飲みの冷めたお茶をすすっていると彼女はやっぱり僕の方を見ていた。
「何か?」
 僕が訊いても彼女は何か言いにくそうにもじもじしているので僕はトレイを持って立ち上がる。「じゃあ僕はこれで」
「ああ私も行きます」と言って彼女も立ち上がった。
 トレイを持ってレジに行く。人がいなかったのでベルをチンと鳴らすと厨房から三角巾のおばちゃんが出てくる。「四百八十円です」と言うので僕は六百八十円を支払った。「二百円は、後ろのひとの分」と言ってトレイを置いて去る。
「あ、あの」足早に歩く僕の後を美佐奈がまごまごしながら追ってくる。

 食堂を出て僕は正門の方へ歩いていく。美佐奈は僕の半歩後ろをついてくる。時間的には授業中なので校舎の外は人気が無く静かだった。グランドや体育館の中からも声が無い。体育の授業は行われていないようだった。
「ごちそうさまでした」美佐奈は言った。
「あ? ああ、うん」と僕は生返事。「収入のある人に奢るのは野暮だったかもな」
「そんなことないです」と美佐奈。「助かりました」
「そう。ならよかった」
「これからどこへ行くんですか?」
「帰るよ」
「授業は出ないんですか?」
「出ないよ」
「あ、あー。悪いんだー。三年生でしょう? 出ないとやばいですよー」
「やばいよ」
 くすくすと美佐奈は笑う。
 校門を出た。昼下がりであまり車通りもなかった。駅までの道。さてどうしようか。
「これから暇?」と僕は言った。
「え? 暇ですよー」
「バイトは?」
「今はやってないです」
「あれ、バイトしてるって言ってなかったっけ」
「今日やめてきました」
 そう、と言って僕はいろいろと思索する。彼女のバイトのことや、この後のことについて。「じゃあどっか行く?」
「ふふ、それって社交辞令ですか?」美佐奈はにこりと笑う。
「さあね。嫌なら、別にいいよ」