13 救済前夜 1
relief

 十月二十七日。
 久の江にやってきて今日で三週間目。
 地震予定日を過ぎてから、丁度一週間が経った。
 久の江での生活は悪くない。ここは穏やかで、のんびりで、自然がいっぱいで、空気が美味しくて。お店が無くて、電車が無くて、通うべき学校も無くて、家族もいなくて。あらゆる装飾の一切が取り払われた、最も純粋な生活がここにはあった。たとえば、どうやって腹を満たすか。たとえば、雨風をどこで凌ぐか。ソトではその全てが当たり前で、ただ生きているだけで与えられたものばかりだ。この場所で問題になるのはただ一点。今日をどうやって生き抜くか。それだけだ。
『僕と一緒に、死んでくれる?』
 僕はあのとき美佐奈に言った。崩壊が約束されたこの場所に来れば、地震という、とてもとても大きな力が、僕たちを殺してくれるはずだった。餓死でも、病死でもない、もっと巨大で圧倒的な死の力でもって、微小な僕たちの命を奪い去ってくれるはずだった。だから僕らはその日を待って、静かに生き延びているのだ。それなのに、あろうことか僕らは二十七日の朝を迎えてしまった。地震が起こるとされていた二十日から一週間もの時間が経っている。
 なんというか、僕たちは、究極的に暇だった。この場所では、食べ物と住む場所さえ確保できれば、それだけで許される。勉強をさせられることもないし、余分な労働を強いられることもない。住むところは、久の江にやってきた初日に確保した。丘の上にある、ちょっとした集落のとある民家だ。このあたりの民家は住民退去命令よりもずいぶん前から、誰も住んでいないようだった。建物は茅葺きで傷み放題、雨漏りはするし、隙間風は吹くし、風で建物は軋むし……。海側のもっと近代的な家にすればいいのにとは思ったが、まあこんな家でも、美佐奈がここがいいと言って聞かないので、ふたりで丸二日かけて蜘蛛の巣を取り払って、なんとか住める状態にした。それで住居は確保。鱸の爺さんがくれた、魚と大量の野菜、少しの肉と調味料。美佐奈が持ってきたカレー粉と鍋。これで食料も確保。当分の間は食べたり寝たりには困らない。他に必要なのは、暇を潰す手段だった。
 今日僕たちは昼まで寝ていた。と言っても、日が昇るまで寝てしまうのはここへ来てから毎日のことだったが。いつもと変わらない朝だった。昼ご飯の粉吹き芋を食べているときに美佐奈は突然、「勉強がしたい」と言い出した。僕はその言葉に驚いた。言ってみれば学校の日々に嫌気が差して彼女と僕はここまで来てしまったのだ。だから彼女が勉強がしたいなんて言い出すとは思いもしなかった。
 僕らは軽トラックに乗って、久の江の中央にあるあの学校へ再び足を運んだ。ガラスの散らばる玄関から中へ入り込む。昼間の学校は日が差し込んで明るい。この間のようなおどろおどろしい雰囲気もない。また変な奴が襲って来はしないかと注意を払っていたが、そんな気配はなかった。僕らは鍵の開いている教室を隅々まで探して三階にようやく見つけ、そこに忍び込んだ。チョークの跡が残る黒板、木製の安っぽい勉強机、そして教壇―――ここにあるものは僕たちが切り捨ててきたモノばかりだった。全く使われずに放置されていたせいか、教室にはそれほど埃も積もっていない。僕は窓を開けて空気を入れ換える。窓からはグランドが見下ろせる。遠い先に海岸、その向こうに水平線が見える。小さく見える海は静かに日を反射してきらきらと光っている。そして振り返ると、教壇の前の席に美佐奈が座っていた。美佐奈は、感慨深そうに、そっと机の傷か何かを指でなぞっていた。美佐奈はもう二年も前に学校を辞めている。彼女の選択は正しかったのだろうか? 学校を辞めることで僕らは何を得たのだろうか。何も考えず、与えられたシステムを盲目的にこなしていたあの日々。僕が優等生をやっていた頃、学校を辞めるだなんて、そんなことは思いつきもしなかった。大して面白くもない勉強をして、誰かに褒められたり羨望されたり、そんな些細な自己満足を得るためだけに必死になっていたあの頃。
 黒板には古びたチョークが何本か置いてあった。一番長い、まだ使えそうな白いチョークを拾って僕は授業を始めた。僕が先生で、美佐奈が生徒。僕は美佐奈が以前苦手にしていたという数学を教えることにした。もうすっかり数学なんてものを忘れてしまっていた彼女のために、中学の復習レベルから始める。僕は数学はそれほど好きではなかったが、適切な解答を得るための技術には卓越していた。つまりは得意だった。思いつく限りの数式を並べ、彼女に黒板で解かせ、その理解度を確認する。僕は、どの先生も教えてくれない、簡潔で的を射た、最も理解しやすい解説をする自信があった。僕は数字ではなく、線を引き、円を描き、点を並べ、あらゆる数式を図でイメージする方法を教えた。数式なんて解けなくていいのだ。そんなものは計算機に計算させればいい。学校では、その数式が何を表しているのかを知らせないまま、無闇に公式に当てはめることばかりを教える。その行為をあたかも数学であるかのように見せかけて。なぜなら、受験勉強のためにはその方が効率がいいからだ。一体、学校とは何なのだろう? そういう授業のくだらなさが僕をより一層学校から引き離したのだ。
 美佐奈は僕の話の一部始終を真剣に聞いていた。時には質問し、時には目を丸くして感嘆の声を上げたりしながら。
「学校で教えてる事なんて、この程度のことなんだよ。それを、学校では、わざわざ複雑に並べ替えて分かりにくくする。『応用』だなんて銘打ってね」僕は言った。「学問ってのは、そんなにつまらないものでもない。のめり込めば、頭を動かす事ほど楽しいことはないんだ。本来はね。でも学校の中にいるとそのことが分からない」
 美佐奈はいつの間にか涙ぐんでいた。僕はたじろぐ。
「そういうことは、もっとはやく、教えてよ」美佐奈は涙を拭って笑いながら言った。
「そうだね」僕はチョークを黒板に置く。「僕も教えて欲しかった」

 学校でするのが夢だったの、と美佐奈は冗談っぽく言って、僕たちは教室で抱き合った。もう生徒なんてひとりもいない、世界の果ての廃校舎で。この教室ではもう二度と授業は行われない。僕たちが机を揺らす音を、久の江じゅうが耳を澄ませて聞いているような気がした。終わったあと、美佐奈は短いキスをしてから、僕に抱きついた。僕が、彼女に腕を回すと、彼女はよりいっそう力を強めて抱き返した。
 その様子に僕が「どうしたの?」と訊ねると、美佐奈は僕の耳元で、「私、いま地震が来ても、いいよ」と言った。幸せそうで、とろけるような甘い声だった。
 僕はそのとき、美佐奈の言葉でふいにおとずれた戦慄に耐えられなくて、できるだけ静かに美佐奈から体を離した。
 大地震の予定日は一週間も前に過ぎた。もう、いつ地震が来てこの久の江が崩壊したっておかしくはない。それなのに僕は心のなかでいつのまにか、地震のことをすっかり忘れていた。いや、忘れていたというよりは、わざと心のどこかに追いやっていたのだ。確実に迫る目の前の危機に。死という現実に。―――僕たちは死ぬ。地震が起きて死ぬ。建物に潰されて、津波に飲まれて、地割れに巻き込まれて。どういう方法で死に至るのかは分からないが、この久の江という土壌は、大地震によって確実に地図の上から消え去るのだ。僕たちを飲み込んで。
 僕は自分の気持ちを見失いかけていた。僕は地震の到来を本当に望んでいるのだろうか。もしかしたらあの予知は誤りで、地震なんて来なかったとしたら、どうなる? 無様に僕らは生き残って、のこのことあの町に帰るのか、もしくは一生この久の江に暮らすのか。
 僕は死を思った。僕は死ぬのだろうか。得体の知れない大きな力に潰されて―――この体が砕けて。僕は自分の掌を見た。指を動かしてみる。一本一本、動く。考えてみれば不思議なことだった。指を動かそうとして、どうしてそのとおりにこの体は動くのだろう。これを動かしている『僕』はどこにいるんだろう。僕はその指で自分の胸に触れる。心臓は一定のリズムを保って鼓動している。僕は過去に美佐奈が言った言葉が頭から離れなくて仕方がないのだ。
『私の、心臓……何これ。なんで動いてるの? 気持ち悪いよ……。私、動かそうなんて思ってないのに、勝手に……』
 僕の心臓は僕ではない誰かに動かされていて、いつかこれが止まって、死ぬ。死とは、肉体の停止であり、自己の喪失なのだ。では、『生』とは? 生きているとは何だ? それは死を定義することよりも随分難しい問題だった。
 一瞬、雉間春里の顔が思い浮かんでまた消えた。

 ふと気がつくと、美佐奈は僕の顔を不思議そうに覗き込んでいた。思えば美佐奈は、ここへ来る前までは廃人に近い状態だった。僕は人間があんな風になるのを見るのは初めてだった。たまに喋ったと思えば言ってることは支離滅裂で、ものも食べず、ただ寝たり泣いたりする日々だった。だけど久の江へ来てからというもの、美佐奈の顔色はみるみる良くなって、また以前のような笑顔も見られるようになったのだ。
「美佐奈」僕は言った。「おなかへった」
 美佐奈はくすりと笑った。いつの間にか時間は過ぎていて、僕たちは夕暮れの学校をあとにした。外へ出たかったのは、地震を恐れたからだろうか? 地震はいつ来る? 本当に僕は死ぬのか? 誰も知らないこの場所で。