十月二十八日、雨。
雨音の煩さに目が覚めて雨戸を開けてみると、大粒の雨がしきりに降っていた。雷が鳴る。風も強い。横殴りの雨が家に入ってくるので僕はすぐに雨戸を閉めた。雨のせいか随分冷える。
畳に横たわっていた美佐奈が目を覚ます。眠そうに目をこすってから僕を見つけ、「ん、おはよう」と呟いた。「雨?」
「うん」と僕。そういえば久の江に来て初めての雨だ。
「寒い……」美佐奈はたちあがり、こちらにやってきて、僕の背中にぴったりとくっつく。「あったかい」
隙間風がどこからか吹き込んでいる。というか、この家自体が隙間で出来ているようなものなので、密閉性はかなり低い。時折風が当たって雨戸が大きな音を立てる。秋も深まって、そろそろ深刻に寒い。背中に美佐奈の感触。
こんな日にわざわざ外に出ることは無い。今日は家にいることにしよう。僕は美佐奈を畳に押し倒す。美佐奈の体はぽかぽかと温かい。人間の体はどうしてこんなに熱を帯びているのだろうか。
十月二十九日、雨。
雨脚は強くなるばかりだ。台風が来ているのだろうか。昨日は一日中寝て過ごした。そのせいか、体の節々がずきずきと痛む。風邪を引いたかもしれない。治りかけた肩の傷にも、寒さが染みる。黒い空と吹き荒れる雨とが久の江を支配している。その嵐の音は残酷な響きの音楽だった。僕らの故郷も雨だろうか。ふと、そんなことを思った。両親は僕を捜しているだろうか。学校に残してきた僕の友達は? 知らないうちに学校を辞めていた美佐奈を僕たちが忘れていったように、僕という存在もすぐに忘れられてしまうだろう。
僕は、鱸の爺さんの事が心配になった。そんな風には見えなかったが、彼はどこかを患っているようだった。娘夫婦に見捨てられ、看病もなしに、老人ひとりの生活。多分、ひとが死ぬのはこんな日だ、と思った。何故そう思ったのかは分からないが……。だけどいくら彼が心配だからといって、今から様子を見に行くのは危なすぎる。この雨量なら川が氾濫していてもおかしくはない。この家は丘の上だから浸水は無いが、海に近い彼の家の周りは危険だ。
危険? 危険とは、死ぬかもしれないということ。僕は自分の命が惜しいのだろうか。
雨が続いて、美佐奈の元気が消えかけている。このままではまたあの部屋の生活に逆戻りする羽目になるかもしれない。雨漏りが増える程、僕たちの間の会話が減っていく。
十月三十日、快晴。
台風が去ったのだ。昨日までの雨が嘘のように、空には雲ひとつ無かった。汗ばむくらいの、鋭くて温かい日差し。澄んだ冷たい空気。気持ちの良い日になった。家の周りの紅葉は殆ど散ってしまった。
美佐奈は少し明るさを取り戻したようだった。彼女の提案で、じゃがいもを炊いて鱸の爺さんのところまで持っていくことにした。
外は本当に気持ちが良い。久の江は実に良いところだと思う。空気なんかがきらきら輝いているようだ。
炊いたじゃがいもを鍋に盛って、僕たちは車に乗り込んだ。丘を下って海へ向かう。久の江を縦断する川には、泥が混じっていてまだ水位が高く、台風の名残を思わせる。フロントガラスに差し込む日差しがまぶしかった。
しばらく車を走らせて鱸氏の家にたどりつく。美佐奈は元気よく荷台から飛び降りて、鍋を持って玄関に駆けていった。すこし遅れて僕が後に続く。美佐奈は玄関の前に立ったままで、まだ中に入っていなかった。
「どうした?」僕が訊くと、美佐奈はチャイムのボタンを押した。家の中から小さく、ピーンポーン、という電子音が漏れる。暫く待つが、中からは反応がない。
「留守なのかな」美佐奈は言った。「何回押しても出てこないの」
「どうせまだ寝てんだろ」僕は冗談で言った。そのとき僕らの間に、あの予感が走った。僕と美佐奈は同時に顔を見合わせた。
あわてて僕はドアノブを回す。鍵は、かかっていなかった。ドアを開ける。美佐奈は僕の横をすり抜けて、玄関に鍋を乱暴に置いて寝室へ駆け込んでいった。僕はその後を追う。寝室に入ると、美佐奈は入り口に背を向けて座り込んでいた。というよりは、力無くへたりこんでいた。美佐奈の奥には布団が敷いてあって、鱸氏はそこにいた。両手をあげ、布団から上半身を乗り出す格好で、うつぶせになっていた。彼の口元の畳や、布団のシーツ、枕カバーなど、あらゆるところに赤黒い染みが散っていた。明らかにそれは彼が吐いた血だった。声をかけても、鱸氏は動かなかった。僕は彼の近くに座り、その頬に触れてみた。冷たかった。丁度、スーパーで売らているパック詰めの生肉のような温度だった。彼の黒い肌の色が抜けて、うっすらと青白くなっていた。最期に苦しんだのか、その表情はすこし歪んでいる。そこらじゅうに吐き散らされた血液が、壮絶な最期を物語っていた。でもその様子を看取る者は誰一人いなかったのだ。
老人は、その死に目を誰にも見せることなく、また誰にも知られないまま、孤独な死を遂げた。彼には、僕らが持たない、長い歴史があった。彼がその生涯の間に見てきたもの、聞いてきたもの、感じたこと、考えたこと、―――そういったものは、一体どこへいってしまったのだろう。彼は最期に何を思ったのだろう。
僕は美佐奈の顔を見た。美佐奈は泣いてはいなかった。彼女はただ、じっとその亡骸をみつめているだけだった。彼女のその表情は読み取れなかった。
『そいつは気が狂って舌噛んで死んだ。もうひとりは栄養失調で倒れてそのまま御陀仏だ』
僕は彼の言葉を思い出した。実の父親を捨てていった娘夫婦は今頃どこにいるのだろう。そしてふと、校舎の四階から飛び降りたあの少年が頭をよぎる。
まだ起こってもいない地震のせいで、次々と人が死んでいく……。
僕は鱸氏を持ち上げる。魂の抜けてしまったその肉体は思ったよりも軽く、頼りなく、小さかった。まだ腐乱は始まっていない。こうも冷たくなかったら、眠っているのと変わらない。
「何処へ行くの?」美佐奈は小さな声で言った。
人は死んで何処に行くのだろう。
僕は鱸氏をトラックの荷台に寝かせて、浜まで運んだ。美佐奈は助手席で黙っていた。
鱸氏は海に生きたひとだった。僕は彼が海に出ていた頃を知らない。だから本当はこんな事を僕がするのは彼にとっては不本意かもしれない。堤防から下りると、優しい波の音が砂浜を支配していた。深い砂に足をとられながら、僕は彼を運ぶ。美佐奈はその後に付いてくる。漂着物の中に、偶然、丁度いい大きさの板を見つけた。人間が二人くらいは寝そべられそうな、いかだのような正方形の木組みの板だった。ボロボロに朽ちて綻んでいたが、用は足りそうだった。僕は波打ち際にいかだを置いて、その上に彼を寝かせた。思ったより板はあまり浮かばなかったが、潮にあわせて強く押してやると、引き潮に乗っていかだはゆっくりと進み始めた。いかだは、波に流されて、行ったり、来たりしながら、少しずつ沖へ向かっていった。僕と、美佐奈は、彼が見えなくなるまで、その様子を見送った。