十月三十一日、晴れ。
相変わらず天気が良い。鱸氏の死体を見ても美佐奈はいつも通りだった。だけど僕は、どうやらそうはいかないみたいだ。
あのときの感情がよみがえる。
苛立ちがつのる。ああ、やばいな、この感じ。また向こう側へ行ってしまいそうだ。
僕は昨夜、一睡も出来なかった。老人の死体の重さが手に残っていた。
心臓の鼓動が早い。息が苦しくなってくる。
駄目だな、僕、生きてる。
昼が近かったが、美佐奈はまだ眠りこけていた。畳の上に日差しが差し込んであたたかい。美佐奈は眠っている。死んではいない。まるで眠ったように眠っている。息をしている。生きて、いる。
美佐奈は目を覚ました。至近距離で僕と目が合う。それでも美佐奈は抵抗しなかった。ただ安らかな目で、全てを悟ったかのように、僕の様子を見守っていた。僕は暫くそれを続けたが、体から力が抜けてしまって、うまくできなかった。だから僕は、美佐奈の首から手を離した。彼女の首には、くっきりと赤く、僕の指の跡が残った。
美佐奈は、けほ、けほ、と咳き込んでから、再び僕をみつめる。
「やめちゃうの?」
「…………」
僕は、固まっていた。頭が真っ白だった。
「ねえ」優しい声で、美佐奈は僕に言う。「いいよ、続き、してよ」
「違う……」僕は、後ずさりしながら、首を横に振る。「そう、冗談だよ。ごめん……」
「待って。いいの、ごめんなさい。気にしないで。だから、こっちへ、戻ってきて……」美佐奈は僕に両手を差し出した。
僕は、逃げ出した。美佐奈に背を向けて家の外に向かって。
もう、駄目だ。
いつまで待っても、きっと、地震なんて来ない。
何が久の江だ。
こんなところまで来ても、何もありはしないのだ。
そんなことは初めから分かっていた。分かって……。
意味のある人生なんて存在しない。
地震が僕を救ってくれたりはしない。
誰も僕に意味を与えてくれたりはしない。
生からも、死からも逃げ出して、戻る場所さえ、失って。
ここが、生き止まり。
死にたい……。
『言いたければ言えばいいのに。『死にたい』って!』
死にたい……。
違う、死にたくない……。
『私はどうすればいいの? もっと生きてなくちゃ駄目なの?』
なんだ、これ……。
どうしてこんなことに……。
『僕と一緒に、死んでくれる?』
―――何のために僕は生きているんだ?
「待ってよって言ってるでしょ!」
「あが!」
走り出す寸前で背後からラグビー選手ばりの完璧なタックルをかまされ、ばっちり転ばされた。受け身もとれず、畳の上に顔面をびたーんと激突。これ、鼻折れてないだろうか? 鼻血が垂れてきた。これはかなり痛い。死んじゃう……。
うつぶせに倒れた僕の背中に、美佐奈がぴったりと重なった。軽い軽い美佐奈の体重。人間の重さ。
「もう、いいよ。もう、十分だよ」美佐奈は言った。
「…………」
「私ね、『久の江に行こう』って―――あのときあなたが誘ってくれたの、凄く……嬉しかった。あなたが私に意味を与えてくれたんだよ。あなたが救ってくれたの。だから、もう死んだっていいと思った。私の生きてる意味は、あの言葉で、果たされたんだよ」
僕は首を横に振る。「誰も何かに救われたりはしない。死ぬまでは」
「じゃあ私があなたを救ってあげる」
美佐奈の小さな手が僕の喉に巻き付く。うつぶせの僕に乗っかって、彼女は僕の首を締めた。力はあまり強くなかった。彼女の名前を呼ぼうとしたけど、喉が圧迫されているせいで声にならなかった。
僕は雉間里春に首を絞められていた。スチールのロッカーが背に当たって派手な音を立てる。雉間の圧倒的な腕力。僕の体は浮いていた。視界が揺れる。誰かの悲鳴。殺される、と思った。抗えない巨大な力に。しかし僕の心中は穏やかだった。雉間、お前は最高にむかつくけど、やっぱり雉間は雉間だ。最期に僕を憎んでくれるのは雉間だった。僕を殺せば、雉間にとって僕は大きな存在になる。一生忘れられない人間の一人になる。火傷のように消えない痕。僕は便所の落書きみたいに世界の一部になって、死んだあとにも生き続ける。誰かに殺して貰う―――それはひとつの答えだった。くだらないこの世界からの救済だった。
気がつくと美佐奈がとなりに寝そべっていた。おんぼろ屋敷の畳の上で。首には美佐奈の指の感触がまだ残っている。
「いい夢見れた?」美佐奈は言った。
「全然」僕は苦笑する。
「ねえ……。ひとつ訊いていい?」
「何?」
「あなたが雉間君を殺したの?」
「ははっ」つい僕は笑う。「そうだよ」
「そっか……」
「どうして分かったの?」
「だって、最初に私があなたから盗った携帯、あれ、雉間君の携帯でしょ。それでなんとなく、そんな気がしてただけ」
「そう……」美佐奈の言葉を聞いて、僕はすこし気持ちが晴れる。「あいつを殺すつもりなんて無かったんだ。いや、違うかな……あの時は確かに殺そうと思った。一瞬ね……。僕たちは最後に大喧嘩して、僕は首を絞められた。あの野郎、それが完全に極《き》まってて、僕、気ぃ飛んじゃってさ。ははっ。丁度、さっきみたいにね。そのあと、あいつは僕を保健室に運んだ。僕が目を覚ますのを待ってたんだ。そしたらあいつ、謝ろうとするんだ。僕にはそれが気にくわなくって、また言い合いになった。それで僕はガラスの灰皿で頭殴った。そしたらさ、あいつ、動かなくなって……。でも、雉間は、全然抵抗しなかったんだ。避けたりガードしたりせずに、ふつうに、ガツン、って。あんなに強い奴だったのに、それだけで、すぐ死んだ。誰も見てなかったから、死体は、人がいなくなるのを待って、隠した。はは……あの学校、先生も知らない開かずの間なんてあるんだよ。あそこ知ってるのは、僕と雉間くらいだったと思う。僕達の丁度いい喫煙スポットだったんだ。見つかってなければ、雉間はまだ、そこにいるはずだよ」
美佐奈は僕の言葉を静かに聞いていた。
「まさか僕が、人を殺すなんてね……。あのあと僕は雉間の携帯を持ち去った。今思えば、あれってどういう心境だったのかな。彼のものを持っておきたかったのかもね。だから、その携帯が美佐奈に盗られたとき、だいぶ焦ったよ。もしかしたら気づかれたかもしれない、ってね。僕は雉間を殺す気は無かったけど、美佐奈は殺すつもりだった。そのために美佐奈に近づいたんだ。それで、美佐奈を殺す機会を待った。最初はね……、久の江に連れてきたのも、そのためだった。ここなら、人が一人くらい死んだって、誰にも分かりはしない。でもここに来てからそんな気持ちはどこかに行ってしまった。美佐奈を殺しても、何かが得られるわけじゃないってことに気づいたんだ。よく考えたら保身する意味もあんまり無いしね。もうどうでもいいんだ」
「まだ死にたいって思う?」美佐奈は、仰向けの僕の上に覆い被さった。
僕は首を横に振った。
「死にたくない。終わってしまうのは、怖い。でも僕は、悪いことをした。本当に……。美佐奈を裏切ったんだ。美佐奈の気持ちを利用して、騙して、殺そうとした」
「いいよ……全部、私が許してあげる」美佐奈は微笑む。「こんなこと言うの、変かもしれないけど……私、怒ってなんかないんだよ。好きな人に殺してもらえるなんて、むしろ幸せだよ」
「はは……」僕もつられて笑う。「やっぱり美佐奈、君、ちょっと変わってるよ。変態だな」
「お互い様!」嬉しそうに美佐奈は言った。
「僕は、今でもたまに思い出すんだ。雉間が事切れる瞬間を。それまで生きていたモノが、そうでないモノに変化する瞬間を……。僕も、いつか、ああやって死ぬんだ、って。うう、……冷たくなってさ、ただの肉になって、今までの記憶は全部、消えてなくなるんだ。それが死ぬってことなんだろ。ふざけんなよ、そんなの、嫌に決まってんだろ……。本当に死にたい奴なんか、この世にはいないんだ。生きていたいから、幸せになりたいから、死にたいとか言っちゃうんだ。馬鹿なんだよな、人間ってのはさ……。僕は、生きていたい。無意味でも、惨めでも、目的なんか無くても、救いなんか無くても、罵られて、馬鹿にされて、虐げられてでも、生きてやる。死ぬかよ、死んでたまるかよ……」僕は熱くなる目頭をこすった。「美佐奈……。もう、帰ろう。僕たちの故郷に。二人で、一緒に暮らそう。もちろん嫌ならいいんだ」
美佐奈は、ぱあっと明るい表情で微笑む。「嬉しい……。それで、もうすこし大人になったら、またここへ来ようよ。外でちゃんと働いて、お金稼いでから、またここに戻ってくるの」
僕は笑った。「どうして? ここはちょっと不便すぎない?」
「ううん。私、ここ、好きだよ」
「そう……それもいいかもな」僕は安らかな気持ちだった。死ぬとか死なないとか、そんなことがどうでもよくなってしまうくらいに。「今度はちゃんと家を建てて、それで、魚でも釣りながら暮らすんだ」
「素敵」美佐奈は僕に乗っかったまま抱きついた。僕は美佐奈の唇にキスをする。
美佐奈は震えていた。
小刻みに、弱々しく。
「美佐奈?」
僕は心配になって声をかける。
「どうしたの? 何に震えているの?」
「え?」
美佐奈は意外そうな声を上げる。
「震えてるのは私じゃないよ」
おんぼろで木の匂いがするこの家が、かたかたと音を立て始めた。
「これって……」僕は思わず呟く。
僕らは息を潜めてその音に耳を澄ませる。
美佐奈は立ち上がって、
小さなその手を僕に差し伸べる。
「はやく帰ろう。二人で、一緒に、でしょ?」
かたかた、
かたかたかた、
まだ弱々しい揺れの中で握った美佐奈の手は、小さくて、そして温かかった。
セント ――― 終