「もう、あなたに教えることは無いわ」
先生は言った。
「あなたは、これ以上続けて、プロになるつもりなの?」
広岸は答えない。
「はっきり言ってね、あなたのピアノが世に通じるんだったら、私達みたいなピアニストなんて必要ないのよ。そんなもの、機械にでも演奏させておけばいいんだから」
「そんなこと」
鍵盤に置いたままの自分の手を見つめながら、広岸は呟いた。
「そんなこと、なに? やってみないと分からないってこと? 確かに、そうかもしれない。でも今のあなたに決定的に欠けてるのは、練習量なんかじゃないのよ」
あなたのピアノにはなにもない。
あなたの技術より劣るプロを私は知っているわ。でもそのひとの方がよっぽど素晴らしい演奏をするわよ。
これは資質ではなく、姿勢の問題なのよ。
一ヶ月前、広岸は長年続けていたピアノをやめた。
実質、先生にやめさせられたのだが、広岸は、自らやめてやったんだ、と自分に言い聞かせていた。
勉強についても、同じだった。
俺はまだ、本気を出していない。そう思い込むことで、ぎりぎりのところでやってきたのだ。
正確に言えば、本気が出せなくなってしまった。実力を発揮することが、無意味に感じられるようになってしまった。
信じていた色々なものが、次から次へと終わっていく。結局は、終わってしまうのだ。何も、残らない。
―――ねえ広岸。
十子は言った。今でもはっきり覚えている。中学一年の秋だった。
放課後の教室にふたり残って、いつまでとなくたわいも無い話をして。
―――私達、付き合ってるのかな。
付き合うという事がどういう事なのか、あの時は分からなかった。
今思えば。
友達以上恋人未満、そんな関係でよかったんだ。
その曖昧な境目にきっちり線を引いてしまったのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
ずっとあのままでいれば、あんなことにはならなかったのだ。
*
「綺麗な指」
骨ばった細長い広岸の指に、幸はいとおしそうに口をつけた。
「……そうか?」
広岸はすこし照れたような素振りで、隠すように幸の口から手を引いた。
「私この指、好きだよ」
幸の体中を触れる、この指。幸の凹凸を、幸の触れて欲しい部分を、すべて知っているこの指。
「ヒロ君、何かやってたの? 例えば、ピアノとか―――」
「……いや、」
広岸はすこし考えたあと、
「やってないよ、何も」
と答えた。
そしてまた、あの顔だった。なにかを考えているような、思いつめているような、広岸が時折見せる、あの顔。
幸にはどうしても、この顔が悲しみの顔に見えて仕方がない。
この顔を見るたび、どうしようもなく胸が締め付けられるのだ。
(何か悩みでもあるのかな。どうして私には言ってくれないんだろう)
帰りのバスはなかなか来なかった。
幸はバス停のベンチにひとりで座り、定時になってもやって来ないバスを待っていた。
急ぎ足で目の前を通り過ぎる、何台もの車。
(どうしよう、さっき会ったばかりなのに、もうこんなにも会いたい―――)
人を好きになるのは、初めてだった。
広岸と出会って、世界はまるごと変わってしまった。
今まで、体験したことがなかったのだ。
好きな人に抱かれている時のあの甘い気持ちを。
こうして離れた時の寂しさを。
突然、携帯が鳴って、幸は飛びつくように携帯を鞄から取り出した。広岸からのメールだった。
『今日は楽しかった。お前は気付いてないかもしれないけど、俺はお前がいることで、すごく助かってる』
もう、駄目だ。メールひとつで、胸が、こんなにも張り裂けそうだ。
(ヒロ君……会いたいよ……ヒロ君……!)
玄関には、男物の靴が二足あった。
(雅兄、来てたんだ)
靴を脱ぎ、リビングに上がると、落ち着いた雰囲気の中年男性と、大学生ほどの男がくつろいでいた。
「ただいま。お母さんは買い物?」
「お帰り、幸ちゃん。友恵さんはついさっき出かけていったところだよ」
中年男性―――“丘田さん”と幸は呼んでいる―――は優しい声で幸にあいさつをし、ソファでくつろいでいた雅士は、幸を見ると、くいくいと手招きをした。
雅士に近づくと、雅士は幸に耳打ちをした。
「男と会ってただろ」
「な……っ!」
幸は頬を赤くし、思い切り動揺した。丘田がこちらを見てないことを確認し、小声で雅士に訊ねる。
「なんで、分かったの?」
真剣な顔の幸を横目に、雅士は腹を抱えて、くくく、と堪えながら笑った。
「やっぱり面白いな、幸は。冗談だったのに」
幸の父親は、十年前に他界した。
仕事が忙しく、あまり顔を合わせてはいなかったが、背が高くて、海のように優しいひとだった、と幸は記憶している。
父が死んだ時、幸は、母の泣く姿を生まれて初めて見た。
母は、自分が“母親”であることを忘れ、“人間”として、“女”として、いつまでも泣きつづけた。
その姿を見たとき、幸はたいそう衝撃を受けた。
母と言えど、自分と同じ“人間”なのだ、と、一見あたりまえのことをその時初めて実感したのだ。
そしてその時から、世界は恐ろしく不安なものに見えるようになった。
親という絶対軸は、あんなにも脆かったのだ。
私は母に頼らずに、強く生きなければならない。
壊れたように一週間泣きつづけた母。
もう、人が悲しむ姿を見るのは、絶対に厭だ。
三年前のある日、母は、丘田を幸に紹介した。
幸はすぐに丘田を受け入れた。
丘田の連れ子である雅士には、とくによくなついた。
兄弟のいなかった幸は、年上の兄弟というものに少なからず憧れていたのだ。
母が丘田を連れてきたとき、幸はむしろ安心した。
七年かけて、母はようやく、また恋愛できるまでに回復したのだ、と。
ひとはこの年になっても、恋愛ができる。こんな素敵なことはない。
私はこの二人を応援しなければならない。
なんとしても、この二人の邪魔だけはしてはならない。