全体的に色素が薄く、背が小さくて、無口で、大人しくて。
思えば十子は、幸とはすべてが正反対だった。
都奈実という、過去の人物との再会によって、広岸の心は再び、忘れかけていた十子のことが頭から離れなくなっていた。
そのせいか最近は、幸を抱くたびに、十子のことを色濃く思い出してしまうのだ。
(最低だ、俺は。抱いている最中に他の女の事を考えているなんて)
広岸は、しかも自分に罪悪感が無いことにまた自己嫌悪した。
(幸はこんなに俺のことを好きでいてくれる。俺はそのことに応えなければならない)
十子のどこに惹かれたのか、そんなことは覚えていない。
ただ、夢中だった。
授業中に熱心に手紙を書きあったり、夜隠れて長電話をしたり。
どちらも内容はかなりどうでも良いことで、誰々の好きな人がどうとか、今日前の席のヤツがどうとか、部活で何をしたとか、果てしなくくだらない内容だ。
重要なのは中身ではなく、お互いコミュニケーションをしていることがうれしくてたまらないのだ。
席替えを細工して隣同士にしたこともあった。
毎日が新鮮だった。楽しかった。生活や視点のすべてが十子中心だった。
それが自然だった。この関係に終わりが来るなんてことは、微塵も考えたことは無かった。
当たり前に、こんな毎日が永遠に続くものなのだと、何の疑いもなく信じていた。
何より、広岸の十子への愛より、十子からの愛の方が大きかった、と広岸は思っていた。
十子は常に広岸の一歩前にいた。
いくら勉強しても十子には及ばなかったのと同じように、どんなに十子のことを好きになっても、十子はそれ以上に自分を好きでいてくれる。
そんな安心感があった。
十子は、優しい女だった。
あのころ、毎日のように都奈実や男友達と馬鹿ばかりやっていた広岸を、やんちゃな弟を見るような、優しい目で見守っていてくれた。
広岸は分かっていた。十子がそんな自分の子供っぽいところが好きだったという事を。
しかしそれは広岸には、辛いことだった。
はやく、十子に追いつきたい。
はやく、大人になりたい。
大好きな人に、下に見られていることが、耐えられない。
心の奥底で感じていたそのことは、日を追うにつれ、十子との毎日を過ごしていくにつれ、段々と表面化していく。
十子の存在が、プレッシャーとして重く、少しずつ少しずつのしかかってくる。
きっかけなんて無く、その輝いていた日々は、終わりに近づいていった。
「何? 話って。どうしたの」
放課後に呼び出した十子は、いつもの口調、いつもの笑顔で広岸を覗き込んだ。
しかしそれは、逆に不自然だった。
十子は、勘のいい女だった。俺の考えてる事など、すでにまったく見抜かれている、と広岸は思っていた。
「……別れよう」
十子の事を嫌いになったわけではない。むしろ好きだった。
しかし十子と付き合ってる限り、十子にはいつまでも追いつくことはできない、と思った。
十子という存在の重さに、耐えることができなくなったのだ。
今考えてみれば馬鹿みたいな結論だったが、あのときは本当に、こうすることでしか、この重圧から抜け出す方法を見出すことができなかった。
でもきっと言葉が、少なかった。
別れよう、と広岸が言うと、十子は、
「うん」
とだけ言って頷いた。心なしか、笑顔は少しだけ曇って見えた。
ショックだった。
自分が、別れよう、と言ってのけたこと。
何の反発も無く、それを十子が受け入れたこと。
でも十子のそれが、大きな勘違いであったことに気付いたのは、後のことだった。
その夜、電話がかかってきた。
驚いたことに、十子ではなく都奈実からだった。
「見損なった」
都奈実の第一声は、そんな言葉だった。
心臓をぎゅっと握られたような、恐怖と緊張が走った。
「あんた、何考えてるの? 何でそんなことするの?」
震えている、その声。怒りを押し殺し、打ち震えている。
「十子、泣いてた……あんなふうに、十子があんな風になるなんて」
「……お前には関係ねえだろ。お前に、何が分かるんだよ」
半信半疑でつい言ってしまったその言葉に、都奈実は堰を切ったように広岸を責めはじめた。
「じゃあさ、あんたに十子の何が分かるって言うの!? あんた、十子がどれだけあんたのこと好きだったか、知ってるの? 毎日毎日、今日は広岸がああしただの、こうしてくれただの、そんなことばかり聴かされてたんだよ? あんなに嬉しそうな十子見るの、初めてだったから、あたし、毎日、嬉しかったし……悔しかった。あたしが八年かけても、十子のあんな顔、見たこと無かった。それなのに、突然現れた、わけわかんないあんたみたいのが、いとも簡単に、あの子の笑顔を奪っていくなんて……。それでもあたし、いいと思った。あんた、悪い奴じゃなかったから。あたしもあんたのこと、嫌いじゃなかった。それなのに……それなのに、どうして裏切るようなことするの? ずっとあのままでいちゃいけないの!?」
「……」
あのとき、都奈実が何でそんなに怒っているのか、よく理解ができなかった。
“付き合う”“恋人同士”の関係を解いて、元の“仲のいい三人”に戻りたかっただけなのに。
どっちかどれだけ好きとか、そういうのに耐えられなくなったから、また友達としてやり直したかっただけなのに。
それなのに、これが“裏切り”だって?
翌日、十子は学校に来なかった。
「どうしよう、十子、休んで―――電話も通じないし……。もし十子になんかあったら、あんたのせいだからね」
都奈実はキッと広岸を睨んだ。
広岸は家に帰り、急いで電話をかけた。しかし、繋がらなかった。
何度かかけても、故意に切られているような感じがしたので、意地になって何度も何度もリダイヤルをした。
何十度目かのリダイヤルで電話はふいに繋がり、広岸はだいぶ慌てた。
「……はい」
十子の抑揚の無いその声は、がらがらに枯れていた。その声を聞いた瞬間広岸は、ようやく、事の重大さに気付いた。
学校を休み、こんな声になるまで、十子は泣き明かしていたのだ。その事実だけで俺には、十分過ぎるほどの罪がある、と。
「十子、俺、あのさ、」
言葉に詰まっていると、十子は、
「どうしたの?」
と、心底心配したような口調で言った。
どうしようもなく、胸が、締め付けられた。今一番辛いのは十子なのに。それなのに十子は、俺の心配なんかしている。
俺は、なんて言えばいい? こんな十子にかけられる言葉なんて、俺は持っているのか?
「もしかして私のこと、心配して電話してくれたの?」
「あ……」
「ごめんね私、こんな声だけど、今日休んだのもただの風邪だから、ね? 心配しなくていいよ?」
なんて、事だ。十子は俺に心配をかけまいとしている? こんな分かりきった嘘までついて?
「嘘だ。じゃあ……じゃあ何で電話出なかったんだよ」
「……」
十子は黙ってしまった。嘘をついたことを認めるその沈黙は、広岸にとっても、辛い、辛い意味を持った沈黙だった。
静かな電話のノイズの中、十子の小さな息だけが、ただ聴こえる。
今一体何をするべきなのか、分からなかった。言うべき言葉も、待つべき言葉も、すでに持ち合わせてはいなかったから。
でも今やれることは、ただ、一つしかなかった。
「ごめん、十子」
「なんで謝るの?」
「嫌いになったわけじゃないんだ」
「……」
違う。俺の言いたいことはそんなことじゃない。
「俺は、ただ、友達に戻りたかったんだ。そんでまたさ、都奈実と三人で、前みたいにさ」
何を言っても、何を言っても、考えてることは口を出た瞬間、言い訳のように惨めに響いてしまう。
「……いいよ」
「え?」
「ほんとはずっと前から気付いてたんだ、広岸の気持ち。だから、謝らなくても、いいよ」
悲しいほど枯れた、その声。泣かないように、精一杯明るく振舞っているのが分かった。
「広岸が、そうしたかったんでしょう? 広岸がしたいようにしていてくれるのが、私には一番のしあわせだよ」
十子は語りかけるように、また自分に言い聞かせるように、やさしく、確かにそう言った。
―――私には一番のしあわせだよ。
その夜、広岸は眠ることも忘れ、十子とのはじまりを辿るように、いつまでも泣いた。
十子の残酷なまでの優しさと、自分の愚かさを抱いて。
時はいつの間にか通り過ぎ、広岸は中学三年生になり、受験を間近に控える身となった。
二年生の頃から、十子に追いつこうと必死になって勉強してきた甲斐もあってか、難関とされている志望校へも合格確実と言われるほどだった。
しかし、十子は―――。
十子とは、あの最後の電話以来、交流がまったく途絶えた。
同じクラスにいるのに、十子は広岸を、まるで見えていないかのように扱ったのだ。
話すことはおろか、目が合うことすら、無かった。
あれから和解した都奈実を通して、まれに十子の話を耳にする程度だった。
(これが 俺の 望んだことだったのか? どうして 十子は 話してくれない? 元には 戻れないのか)
あるとき、廊下の角でばったりと十子に遭遇した。
あれ以来初めて、目があったのだ。あまりに突然のことにどちらも、ひどく狼狽した。
「……よ、よう、十子」
十子の瞳孔が一瞬、大きく開いたかと思うと、広岸の横を何も起こらなかったかのように通り過ぎようとした。
「待てよ、おい!」
強引に腕を掴み、十子を引き止める。
振り返った十子の、その細く、弱々しい二の腕。
悲しさをいっぱいに蓄えた眉。
泣き出しそうに、怯えた、絶望と、悲愴とが入り混じった瞳。
(なんて、顔をするんだ―――)
すべての要素が悲しみに作用している、この顔。
一生、あの顔を忘れることは、ない。
「あ……」
腕をすり抜け、逃げるように走り去る十子を止めることはできなかった。
それが、十子との、最後の接触だった。
それ以降の十子の転落ぶりは、思い出すだけでも辛い。
あんなに頭が良くて、広岸がいくら勉強しても追いつけなかった十子は、成績上位者の名簿から、すぐに消え去った。
都奈実の言うには、成績も次々と落とし、入る高校すらも危ぶまれるほどになった。
県外の全寮制の私立女子高へ、やっとのことで合格した、とのことだった。
張り出された、合格発表。
広岸の受験番号の隣には、十子のそれが、あるはずだった。
ともに合格したことを、手を取り合い喜んで、ともに三年間を夢見て。
しかし十子は、受験すらすることができなかった。
(なんだ、こ れ)
―――一緒に、合格できるといいね。
まだ付き合い始める前、十子に勉強を教わっていた時のことを思い出した。
十子と一緒の高校に行きたくて、がむしゃらに勉強してきたんだ。
それなのに、この有様は何だ?
俺一人の合格に、何の意味がある?
この虚しい、馬鹿みたいな結末は、一体何なんだ?
人とヒトの繋がりは、こんなにも脆く、簡単に崩れてしまうのか?
なんで終わってしまった!? なんで終わらせようと思った!? 教えてくれ! どこで、俺は間違えた!?
景色は吸い込まれるように流れていき、気がつけばそこは夕暮れの、二年生の教室だった。
俺の目の前で、微笑みかける、忘れもしない、あの日の、十子。
『私達、付き合ってるのかな』
ああ、なんだ。
あのとき、始めなければ よかったんだ
始めなければ ずっと あの ままで いられたのに
始めなければ 終わること なんて なかったのに