大粒の雨は一瞬の間隙もおかず次々と窓を打ち、広岸はその不快な騒音で目が覚めた。
寝起きで定まらない思考のなかで、ベッドの向かい側の、七月と書かれたカレンダーをぼんやり眺めた。
赤丸のついた、七月十七日。幸の誕生日。
幸とは、このところ少しだけぎくしゃくしていた。
原因は、広岸が冷たいだとか、メールをあまり返さないだとか、そっけないだとか、そう言ったものだったが、広岸にとってはまるで心外だった。
実際、バイトが重なってメールが返せないことが続いたり、寝起きや気分の優れない時に限って電話がかかってきたり、そういうことは度々あったが、本質はそんなことではない、と広岸は思っていた。
自分の中に、本当のやさしさが無い。
十子との一件で、広岸は、何かあるたびに自分の持つ優しさについて自問自答をすることが多くなった。
かねてから、ひとの気持ちになる、とか、ひとに何かを施す、とか、そう言った類のものが苦手だった。
自分と、それ以外の他人は違う種類の生き物で、その間には絶対に越えられない決定的な隔たりがある、と考えている。
他人の気持ちは、その実際がどうであれ、うわべの仕草や表情を通してしか知ることが出来ないのがその大きな理由であった。
別れ際の十子が、しあわせだよ、と言ったとき、十子が本当にそう思っていたのか、知る手段はひとつもなかった。
ほんとうのことは、いつだって知ることは出来ない。伝えることも、出来ない。
そう思い始めたら、うわべだけで繋がざるを得ない人間関係のすべてが馬鹿らしくなり、何かを他人に伝えたり、伝えられたりする作業を億劫にするようになった。
十子と別れ、広岸の口数は極端に減った。
何かを口にすれば、また誰かを傷つけるのではないか。
この言葉は、口にして良いんだろうか?
喋ろうとする度にそんな思考が渦巻き、その言葉が無数の検問に引っかかっているうちに、何も言えなくなってしまうのだ。
幸に、誕生日には何が欲しい、と訊くと幸は、指輪が欲しい、と、その言葉を待ち望んでいたかのように答えた。
ヒロ君と、ペアの指輪。幸はそう言った。
こんな時期だからこそ、そういった一見他愛も無いような繋がりが必要なことを、幸も心得ているかのようだった。
気が付けば定期試験の時期に入っていた。
さすがにこればっかりは落すと夏休みが削られてしまうので、広岸は借りたノートのページをベッドの上で睨んでいた。
しかし窓を叩く不快な雨音にどうしても気を取られ、ちっとも集中できなかった。
広岸は、雨や、それの持つ湿度に対して極端に嫌悪していた。
濡れたアスファルトが放つ独特のにおいとか、湿った机が腕に張り付く感じとか、湿気でまとまらない前髪が瞼に触れる時の不快感とか、そういったものに人一倍敏感で、人一倍苛立つのだ。
ピアノなんかは特に最悪で、そのままにしていれば湿気で弦がやられてしまうし、何より湿った鍵盤で指が滑る感触が、背筋がぞっとするほど嫌いだった。
まあ、すでに関係なくなったピアノのことを除いたとしても、広岸にとって梅雨は最悪の季節だった。
結局雨にごっそりとやる気を持っていかれ、広岸は程ほどにしてノートを放り出した。
しかし実際のところ雨の所為なんてのは言い訳に過ぎず、晴れだろうがなんだろうがもともとやる気など無かったに違いないのだが。
駅構内の大きな液晶画面の下で幸を待っていた。
いつもと同じだけ遅れてやってきた幸の髪は、前回会った時より少し短かった。
そのことに触れようかと思ったが、なんとなく気まずくて、言い出すことが出来なかった。
家を出たときから降り続いていた小雨は、幸と駅を出たとき、すっかり晴れ上がっていた。
今回幸と会ったのは、幸の誕生日のプレゼントとなる指輪を買うためだった。思えば、妙な話だが、幸とホテル以外でデートをするのはこれが初めてだった。
腕を組んで、まるで若いカップルのように、地下街を歩いた。そこまで考えてから広岸は、そうか、俺たちが若いカップルなのか、といまいち実感の湧かない当たり前の事を飲み込めずにいた。
広岸に腕を絡めて歩く幸は、地下街について熟知していた。あそこのお店が美味しいんだよ、とか、いつもあそこで服を買うんだ、とか、広岸に解説をしながら、その腕を引っ張っていった。
複雑な地下街の地形に困惑しながら、あまりこういう場所に来慣れていない広岸は、週末の賑やかな人ごみの中、幸の腕に引かれるようにして歩いた。
途中、喫茶店のような店に入り、幸はコーヒーフロートを、広岸はアイスコーヒーを注文した。
その店はなんというか独特で、騒がしい地下街の一角にありながらも、その空間は落ち着いたジャズなんかを小さなボリュームで流したりして、不思議な安定感を醸していた。
汚しを入れた木材でわざと荒っぽく組まれた内装に、よくわからない大きな南国風の観葉植物がところどころに飾ってあった。地下街側の壁はガラス張りになっていて、まるで別次元のような外の世界の喧騒を、他人事のように眺められるようになっていた。
客といえば、自分達のような若いカップルばかりで、やはり似たようなものを頼んでいた。
(そうか。こういう、雑誌に載っているような場所に来たりする当たり前のようなデートを、幸は望んでいたのかもな)
コーヒーのグラスの上から大きく盛り上がったアイスクリームを美味しそうに頬張る幸を、いとおしく思いながら眺めた。
到着したアクセサリショップには、その高級そうな出で立ちに不釣合いな“七夕セール”などという安っぽい張り紙がそこらじゅうに張ってあり、店内は浴衣を着た女性やカップルでごった返していた。
その様子を見て初めて、今日が七月七日であることを思い出した。
混雑具合に辟易しながらも、指輪のコーナーへと向かった。
そこには感心するほど様々なデザインの指輪が、ガラスケースの中に並んでいた。
ひし形の中央に小さな宝石が埋められたシンプルなものから、ダイヤなのかなんなのか、無数にやたらとくっつけられた趣味の悪いものまで、多種多様だった。
これが良いんじゃない、と幸が差した指輪を見たとき、広岸はぎょっとした。
ピアノの黒鍵と白鍵が小さくデザインされた、細い銀色の指輪。
そのあまりの皮肉に、広岸は思わず気に入ってしまった。自虐の意味もこめて、それに決めることにした。
店内がすし詰め状態なほどの混雑に、店員を呼んでからずいぶん待たされた。
手の小さな幸は十号を選び、広岸は十二号の型を指にはめてみた。
しかし、ごつく膨らんだ第二関節にひっかかり、うまくはまらなかった。
―――あんまり指ばっかり鳴らしてると、関節太くなっちゃうよ。
蘇る、十子の声。
(なにを、考えている。今隣にいるのは、他の誰でもない、幸だ。十子のことはもう……忘れなければ……)
店員から包装された指輪を受け取り、代金を払うと、広岸は幸の手をとって逃げるように店を出た。
息が詰まるほどの人ごみに耐えられず、一刻も早くそこから解放されたかったのだ。
ただでさえ苦手な空間ばかり歩き回った広岸は、すでに疲労困憊していた。
そんな疲れ果てた広岸の表情を見て、幸は、
「ねえ、どっか入ろう?」
と気を遣うように言った。
“どっか”がどこを指しているのかは、訊くまでもなかった。
七夕という時期もあってか、いつものホテルは珍しく満室に近かった。
空いている部屋の写真パネルのボタンを幸が押し、出てきた鍵を受け取ると、幸は広岸を引っ張るようにしてエレベーターの中に押し込んだ。
エレベーターが上昇し、特有のブラックライトによる悪趣味な装飾が紫色に光ると、幸は広岸にくっつき、えへへ、と悪戯をした子供のように笑った。
幸の体からは、ふわっと、幸特有の甘いにおいがした。
部屋につくと、幸は真っ先にベッドに腰掛け、鞄の中の指輪の箱を確認し、それに満足するとすぐにまた仕舞った。
「あけないのか?」
広岸が訊くと、
「だーめ。それは誕生日が来てからだよ」
と意地悪っぽく答えた。
広岸が隣に座るのを見計らい、幸はなにか決意のようなものを抱いて立ち上がった。
広岸の両肩を掴むと、その非力な腕で、広岸をベッドに押し倒した。
「お、おい、幸―――」
当惑する広岸の口を、幸の唇が塞ぐ。
長く、激しいキス。
幸は痛いほど広岸の舌を吸い、また、自分にもそれを促すように濃密に舌を絡めてきた。
頭の中が、融けるように恍惚になっていく。まるで舌が全身の感触を担ってしまっているかのような、体中が震えるほどのキスだった。
幸がようやく唇を離したとき、広岸の思考は半分以上そぎ落とされていた。
そして幸もまた、自分の行為に酔いしれるかのように、目を潤ませ、頬を紅潮させて興奮していた。
幸は顔を広岸の下半身に移動すると、ズボンに手をかけ、金具をはずし、ジッパーを下ろした。
下着の中から、すでに固くなった広岸のものを取り出すと、根元から舌を這わせた。
咥えられるのは余り得意ではなかった広岸も、疲労と先ほどのキスで全身の力が抜けてしまっている今となっては、抵抗する手立てはなかった。
生温かい舌と指の感触が脊髄を介して電気のように全身に伝わり、不覚にも、声が漏れる。
なにかに取り憑かれたかのように、いとおしそうにそれをなめる、幸。
その、淫靡な音。部屋全体が、官能的な空気で満たされていく。
今にもいきそうな広岸の表情を見届けると、幸は自分の服を脱ぎ捨てた。下着だけの姿になり、それらさえも脱ぎ払ってしまうと、広岸の上にまたがった。
そして大切な何かを待ち望んでいたかのような表情で、大事そうに自分のそこに、広岸をあてがった。
先端が触れた時、いつもより濡れていることが分かった。
一気に、腰をうずめる。
その瞬間、幸は大きめの声とともに、目を閉じ、体をぶるぶる、と振るわせた。幸の中が、急激に締まる。
波が収まったあと、幸はゆっくりと腰を前後に動かし始めた。
幸の体の奥から、熱い液体が次々と分泌されて、広岸のそれに絡まる。
すぐにでも中に放ってしまいそうな感覚を堪えるのが、精一杯だった。
しかし幸はその途中何度も、身を震わせていってしまい、腰を動かすどころではなくなった。
恍惚とした快楽の中、広岸は幸の腕を掴み、激しく腰を突き上げ、幸の中で果てた。
なにもかもを出し尽くすように、長い間、幸の体の奥に射精しつづけた。
たまっていた疲労はどっと訪れ、同時に眠気に変わった。
幸は、くたっと広岸の上に倒れると、遊びつかれた子供のように、静かになった。
二人の息がだいたい落ち着くと、幸は、ぷっと吹き出した。
広岸に背を向け、裸のまま丸くなり、くくく、と肩を揺らした。
そして、何かが弾けたように、幸は笑い声を上げた。
すこし驚いたが、その声につられ、広岸も笑った。
あはは、ははは。
大きな声を上げて、幸は笑った。
馬鹿で不器用な自分達を、広岸も笑った。
広岸に見せないようにはしていたが、幸の目には、確かに涙があった。
幸の体から、白い液体がとろりとあふれた。