幸福論 XI
thehappiness

 補習、補習、補習、補習、補習、補習。
 まるで侮っていた。
 夏休みなど、名ばかりに等しい。灼熱の猛暑の中、毎日のように学校へ通う日々。
(暑い―――)
 家の玄関から外へ出た瞬間、太陽は容赦なくジリジリと広岸の肌を焼きはじめた。
 クーラーで冷えていたはずの体から、一瞬で吹き出す汗。
 根元からそぎ落とされていく気力。
 駅までの一歩一歩がやってられないほど重い。

 ああなんで俺はこんな事をしているんだろう。
 こんな日に勉強なんてしても実りなんてあるはずが無いのに。
 第一、勉強って何だ?
 入試なんかのために貴重な夏休みを全部潰して、勉強して、さらに勉強して、そんなものが何の役に立つって言うんだ?
「なに言ってんだお前。今更、役に立つとか立たないとかで勉強してんじゃねーよ」
 夏雄は言った。
 エアコンの効いた図書館。広岸と夏雄は一つの机で向かい合い、教科書とプリントを広げていた。
 一日のノルマのプリントが終わればそれを職員室に提出、解散。別に先生が何かを教えてくれるわけではなく、それが補習の実態だった。
「もういい加減受け入れろよ。なんで勉強するのかとか、なんで大学行くのか、なんで就職するのか、とかさ。そんな事誰でも考えてんだよ」
 広岸には目もくれず黙々とプリントをやりつづける夏雄。
「……大人だよな、お前って」
「んなこたねえよ。俺はただ、楽をするための苦労は惜しまないだけだ」
 それは本末転倒だろうと広岸は思ったが、その言葉はすごく夏雄らしいな、と少し笑った。
「ま、何も考えずにやってりゃすぐ終わるって。今までだってそうだったろ。どんなもんでも結局は終わっちまうのさ」
 と、夏雄は広岸に言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのかよく分からない、すこし皮肉を帯びた口調でそう呟いた。
 ―――結局は終わっちまうのさ。
 広岸は夏雄のその言葉を心の中で反芻した。
「……」
 その時、よしっ、と夏雄はシャープペンシルを机に置いた。
「ほら、終わった。おい広岸、もう半分は?」
「……まだ」

 朝の十時から昼の三時頃までだらだらと補習のプリントを分担作業でこなし、夕方まで夏雄とゲームセンターに寄って時間を潰す。
 携帯の時計は六時を指していた。このくらいの時間帯に電車に乗ると、ある人物によく会う。
「あ、またいる。よっ」
 近頃よく聞くその声。中学時代の友人、都奈実だ。そして―――十子の親友でもあった。今も交流があるのかは、広岸は知らない。
 六月に都奈実と再会して以来、帰りの電車で会うことがしばしばあった。しかし、相変わらず二人の共通の話題であるはずの十子については、お互いが避けているかのように話題に上ることはなかった。
「今日はどうだった? 補習」
 広岸の隣に座り、都奈実は言った。
 高校の制服を着た都奈実は、ゲームセンターでプリクラに群がっていた女子高生たちに混じっていても違和感が無さそうなくらい、随分と女の子っぽく見える。
 昔はあんなに男みたいだったのに。今の都奈実しか見た事の無い連中にこいつの昔の野生っぷりを見せてやりたい、と広岸は思った。
「どうもこうもなあ、いつもと同じだよ。なんと言っても、補習受けてるのは俺と夏雄って奴だけだから、もう本当に適当なんだよ、先生も」
 ふうん、と都奈実は興味深そうに相づちを打った。
「あのあんたが、補習だもんね……。よっぽど難しいんだね、あんたんとこの学校って。あたし、落ちといて正解だったのかも」
 それを聞いて広岸は思い出した。
 都奈実も広岸と同じ高校を受験していたのだ。その事を広岸は知らされてはいなかった。
 受けた事を都奈実の口から知ったのは、つい最近再会してからだった。
「中学であんなに頭良かったあんたが、ついていけないなんて。あたしなんかがもし何かの間違いで入れちゃってたら、きっと一瞬で落第だなー」
 と、都奈実すこし寂しげに笑った。
 広岸は心に大きな風穴が開いたような感覚を覚えた。
(もう、俺はお前の知ってる広岸じゃないんだ―――)
 “中学であんなに頭良かった”はずの俺は、もうどこにもいない。

 補習とバイトで夏休みのスケジュールはいっぱいだった。
 それでも空いた時間はすべて幸のためにあてていたし、本当に一日も休みが無いほどだった。これなら夏休みに入る前の平日の方がよっぽど楽だったのかもしれない。

 幸の態度が、以前と変わってきている。
 そう思い始めたのは、ちょうど夏休みに入った日、つまり幸と初めてホテルに泊まった日からだ。
 あの日の帰り、幸は何かを隠しているかのような素振りを見せた。
 なにかの思い違いだ、と広岸は自分を納得させていたが、あの日以降も、幸はふいに黙ってしまうことがあったり、以前よりも熱烈に広岸を求める時もあれば、そうする事自体を拒む日すらもある。
「お前、最近なんかあったのか?」
 八月に入ったばかりのある日、広岸は幸にそう訊ねた。
 幸は無表情のような、温度の感じられない顔をして広岸をしばらくじっと見つめ、それからゆっくりと首を横に振り、
「ううん……なんでもないよ」
 乾いた声でそう言った。
 明らかに―――“なんでもない”表情ではなかった。しかし、広岸は追求する事は出来なかった。
 幸のその、広岸を見透かすような、あるいは何かを疑っているともとれるような視線。
 そのおかげで、広岸は理解した。
 原因は、自分にある、と。

 ある日の補習の終わり、いつものゲームセンターで襲い掛かるゾンビを手馴れた手つきで片っ端から撃ったあと夏雄は、広岸にある頼みごとを申し出た。
「なあ、頼むよ。俺からじゃ、もうなんだか誘いづらくてさ。もう、付き合ってるのか別れてるのかもよくわかんねえ状態なんだよ」
「ふうん……」
 その隣の筐体に腰掛け、映し出される格闘ゲームのデモを眺めながら広岸は興味なさそうに返す。
「そんな状態になってまで何で花火大会なんて行く必要があるんだよ」
「はは。もっともだ」
 突然、夏雄の画面にゾンビが上から下から次々と際限なく涌き出始める。
 しかし夏雄はすべてのゾンビ達の出現を手玉に取るように、冷静にその猛攻をすべて撃ち落した。
「そうだな。そんな簡単なら、いいんだけどな」
 と、夏雄は銃を筐体に戻しながら呟いた。
 夏雄と、幸の親友―――由紀の仲がもう終末的な事を最初に聞いたのは、もう随分前の事だった。
 何故さっさと別れてしまわないんだろう。と広岸は思っていた。
 由紀と夏雄の関係がうまくいっていないと、広岸にもその被害が回ってくるのだ。
 幸は、由紀達が仲違いをするたびに、広岸に電話で相談をしてくる。
 どうしよう、ユキが、ユキが。私はどうすればいいの?
 答えはただ一つ。幸に出来ることなど何もないのだ。友人として、その恋の果てを見守ることしか、できない。
 広岸は冷静にその事を、経験として知っていた。
 すべてのものに終わりがあるように、どんなに愛し合っても、いつかは終わりの日が来る。
 ひとの気持ちが移りゆくという事を、幸は理解していなかったし、人間のそういう面を認めたくはないようだった。
 幸は、すべての恋人がいつまでも愛し合っていられる、みんなが一緒にしあわせになれるなどという事を本気で信じている性格の持ち主であるし、ひとの不幸には、それが我が物であるかのように感応し、自分まで落ち込んでしまう。
 人生の中で、一番辛い思いをするタイプの、非常に生きにくい性格を持った人間なのだ。

 だが幸に、ひとの気持ちはいつかは変わってしまうという、目の前にある事実を言い聞かせることなど出来るはずもなかった。
 幸は、恋愛が下手だった。恋愛に触れる事自体が、初めてだったのだ。
 これほど大変な事はなかった。同年代の、こなれた者同士の恋愛とは訳が違うのだ。
 しかしそれ故に、素直。人をまっすぐに愛する事が出来る純粋さを持っている。それが、広岸が幸に惹かれる理由でもあった。
 広岸には、全身全霊で人を好きになるような恋愛はもうできない。一歩間違えばずたぼろに傷ついてしまうということの恐ろしさに、頭のどこかで、深入りを避けてしまうのだ。
 かつて自分が十子を愛したようには、もう人を好きにはなれない。
 そして幸の持つ、恋愛に対する純朴さを感じるたび、自分が失ってしまった何かをその中に見てしまい、幸にはいつまでもきれいであって欲しい、と願う。
 そのためには、自分は決して裏切りをしてはいけないのだ。
 勝手な事かもしれないが、ひとの汚さを幸に見せたくはない。
 幸の愛し方は、危険だ。この恋が終わってしまった時、きっと幸の心は、ずたずたになる。
 たとえ傷つく事が大人になるために必要であっても、幸は幸のままでいて欲しい、と、親心のようにそう願ってしまう。
 それが、不可能な事であっても―――何も変わらないでいて欲しいということを、つい望んでしまうのだ。

「花火大会?」
 夜、広岸は幸に電話をかけた。
「うん、行く行くっ。私ね、浴衣って一回着てみたかったんだ」
 幸の機嫌のよさそうなその声を聞いて、すこしほっとした。
 最近の情緒不安定な幸の機嫌を探るのは、それほど簡単ではないのだ。
「それでさ、あの……由紀ちゃんも誘って欲しいんだ。夏雄の口からは誘いにくいらしくて、さ」
「あ……そっか。そうだよね……」
「……?」
「あ、えっとね、ヒロ君からどこかへ誘ってくれる事なんて今まで、無かったから」
「幸……」
「なんてね、き、気にしないでー、あははっ。うん、ユキには私から伝えておくね」

 電話を切ったあとも、幸の声の微妙な感情の起伏が妙に頭に残った。
(なんだか―――色んな物が足りないな、俺には)
 どうしたらもっと幸を満足させてやれるのだろうか?

 時は追われるように流れ、花火大会はすぐにやってきた。
 広岸と夏雄は一緒に電車で会場へと向かい、幸達とは会場の近くにある地下鉄の駅出口で待ち合わせた。
 地下鉄の駅は、それはもう尋常ではない程に混雑しており、その中から幸と由紀を見つけ出すのは並大抵の事ではなさそうだった。
 周りは浴衣を着たカップルや親子連れでぎゅうぎゅう詰めになっているし、携帯は回線が混んでいて通じなかった。

 しかし探すまでも無く、幸たちは、約束どおり駅の出口で待っていた。
 あわただしく河のほうへ向かう人の流れの中、幸の立っている場所だけがほのかに輝いているようだった。
 空色の真新しい浴衣。髪を上げ、また少し大人っぽく見える。
 お世辞ではなく、自分と幸との間を横切っていく人ごみの中の誰よりも、幸はきれいだった。
 今風の顔つきをしている幸には、逆におしとやかな恰好が良く似合うんだな、と思った。
 その隣にいた黄色の浴衣の女の子は、こちらを認めると、にこっと品のある笑顔で微笑みかけた。由紀だ。
 しかしそれは夏雄に対してではなく、広岸に対しての笑みのように見えた。
 人の波をかき分けようやく幸たちのもとへ辿り着く。
「おそーいっ」
 幸は悪戯っぽく言うと、広岸に腕を絡める。
 その様子を夏雄達も見ていたが、由紀は黙ったままで、夏雄にそうしようとはしなかった。
「はじめまして」
 夏雄を差し置き、由紀は広岸にぺこり、と頭を下げた。手足のすごく細い娘だった。広岸もつられて頭を下げた。
 四人で会場である河まで歩いた。広い道路は歩行者天国になっていて、人の流れに乗り、途中幸がなれない草履に転びそうになると、広岸は手を引き上げて支えてやった。
 しかし後ろを歩いていた夏雄と由紀は手も握らずに、無言でそんな前の二人を眺めるだけだった。
 会場では、河川敷にいくつも出店屋台が並び、人の隙間が無い程に賑わっていた。
「あ……向こうの公園のトイレが使えるみたいだから、私ちょっと行ってくるね……」
 と、幸は思い出したように言い、慌てて人ごみの中へ消えていった。
 残った三人。なんとなくその場に居づらい沈黙が流れた。
 夏雄はその空気に耐えられなくなったのか、
「俺、なんか買ってくるわ」
 と言って、立ち並ぶ出店の方へ向かっていき、気が付いてみれば、由紀と広岸は二人きりで取り残されてしまっていた。
 夏雄の後姿をさりげなく目で追う由紀。
(……気まずい)
 広岸が何か話し掛けるべきか悩んでいると、由紀は広岸の顔を下からじっと見つめた。
「広岸君、プリクラで見るよりずっとかっこいいね」
 何を言い出すのかと思い、同時に、不覚にも心臓がどきっとした。初対面の女の子からそんな事を言われたら、誰だって悪い気はしない。
「ねえ、」
 由紀は呟くように、遠くを眺めながら言った。
「このまま二人でどっか行っちゃおうか」
「はあ?」
 広岸は呆気にとられた。
「ふふっ。そんな顔しないで。冗談だよ」
「……」
 一体、この子は何を考えているんだろうか、さっぱり分からなかった。混乱のうちに、夏雄と幸は戻ってきた。

 それから広岸と幸は、夏雄達二人と別れることになった。
 広岸は幸の手を取り、人が少なく、見晴らしのいい場所を探して歩き始めた。
 大きな橋の下をくぐり、河川敷を下っていく。周りの人ごみがまばらになってくると、ドオン、と大きな音がして、遠くの空に花火が上がった。
 金色の火の粉が無数に散らばり、それらがきらきらと夜の空に溶けていく。
「わあ……」
 幸は足を止め、感嘆の声を上げた。
 同時に、歓声と拍手が橋の向こうから聴こえる。
 次々と打ちあがる花火。
 広岸たちは雑草の茂る土手に腰掛けた。このあたりは人が少なく、橋の下を通して花火がよく見える。なにより、遠くから聴こえる喧騒がまるで他人事のようだった。
「きれいだね、花火」
 ぼうっと花火に魅入る幸。しかし広岸には、幸の後ろに打ちあがる花火も、まるで幸を引き立てるためにあるように見えた。
 そっと、幸の肩を抱き寄せる。
 幸は一瞬こわばったが、すぐに力を抜き、身を委ねて広岸にもたれかかった。
 絶え間なく上がる花火の音。遠くに聞こえる人ごみの声。肩を寄せあう幸と広岸の間に、静かな時間が流れる。
 新しい浴衣の匂い。そして幸の、甘い香り。
 幸の体の柔らかさが、肩を通じて伝わる。
(ああ……そうか)
 花火の光が幸を照らし、幸の目が七色の光を映す。
 ふいに、幸が頭を広岸の肩にのせた。その華奢な重さが、こんなにも、いとおしいなんて。
(俺達が求めていたのは、こんな、簡単なことだったんだ。こんなことでよかったんだ―――)

「ユキ達、大丈夫かなあ」
 幸は囁くような声で言った。いつまでたっても幸は、“由紀ばなれ”が出来ないのだろうか。
「どうだろうな……」
 広岸は、由紀と二人っきりになった時の、誘うような態度を思い出した。
 由紀があんな女の子だから、夏雄は相当苦労してきたんだろう。しかしもう夏雄は、別れてしまえば苦労すらさせてもらえない。
「ねえ、さっきユキと二人っきりになってたみたいだけど……ユキに何かされなかった?」
 意外な質問だった。しかし幸は、さすがに由紀の性格を把握している、と広岸は感心した。
「ははっ。なんだよ、普通は逆だろ、それ」
「だって、ヒロ君はそんなことしないよ」
 過度に信頼されるのも荷が重いが、確かに今の自分に、他人の彼女にまで手を出す余裕も気力もない。それに、誠実さを欠く行動は絶対にしない、と誓ったのだ。
「ん……特には何も無かったけど……。悪い、俺、あの子ちょっと苦手だ」
 広岸は気まずそうにそう言ったが、幸は逆になんだか嬉しそうだった。
「あははっ、そうだと思ったよ。なんかちょっと、安心した」
 ドオン。
 一つ大きな花火が打ちあがり、その脇でいくつもの小さな花火が弾ける。
 それらは赤い光の粒となって舞い、やがて緑色に変わって消えていった。
 幸と広岸はその様子を見つめる。
「ねえ、ユキ達、別れちゃうんだよね」
 どこか寂しそうに、空を見つめたまま幸はぽつりと言った。
 打ちあがっては散っていく花火のように、燃え上がった恋人達も、いつかはその愛は変化していってしまう。
「そう、だろうな」
 広岸もまた、空を見上げてそう言った。
 ドオン。
 またひとつ、空が光った。それは大きな柳のように、金色の滝を夜の空一面に作り出した。
「私達、いつまで一緒にいられるのかな」
 幸が唐突にそんな事を言うので、広岸の心臓はドクン、と大きく一つ打ち、速い鼓動を刻み始めた。
「ユキ達、全然喋ってなかった。並んで歩くだけで、手も握ってなかったよ。ユキだってすごく居心地悪そうだった。ねえ、私、やだよ。あんな、思い出作りみたいなの……。私達もいつか、あんなふうになっちゃうのかな?」
 ドオン、ドオン。
 間隙を置かずスターマインが次々と空中で弾け、その風は遠くはなれたこの場所まで届く。
「いつまでも一緒にいたいのに、きっと世の中はそういうふうには出来てないんだよね」
「幸……?」
 無表情で、そんな事を幸は抑揚なく呟いた。遠くの空を、仰いだまま。
 幸の瞳に反射する、スターマインの七色の光。
「ずっと一緒にいたい、って、思ったら駄目なのかなあ」
 幸の視線は空の闇に溶け込んでいた。
「幸っ……!」
 いてもたってもいられなくなり、広岸は幸を座ったまま抱きしめる。強く、つよく。それでも幸は、抑揚のないその声で続けた。
「ヒロ君も、あたしなんかいらなくなったら、きっとどこかへ行っちゃうんでしょ?」
「なんで……そんな事を言うんだ! 俺は、お前がいないと駄目なんだよ。お前まで失ったら、俺はどうすればいいっていうんだよ!」
 本心、だった。
 幸の前で示す、初めての本心が今ここにある。
「どうして、分かってくれないんだ。俺はこんなにも、お前の事が……好き、なのに」
「……」
 思えば、今まで一度たりとも、幸に心を開いた事はなかったのかもしれない。
 心のうちを触られてしまうのは恐かったし、黙っていても気持ちは伝わると思っていた。
 だけどそれは、間違っていたんだ。

 肩に回った広岸の腕に、幸はそっと、いとおしそうに手をかけた。
「やっと、聞けた。その、言葉」
 幸は頭だけ振り向き、背中から抱きしめている広岸とキスをすると、幸のその目に溜まっていた大粒の涙が、頬を伝って落ちた。
「あはは、駄目だな、私。最近ヒロ君の前で泣いてばっかだ……」
 消え入りそうな声で幸は言い、広岸の腕をぎゅっと、大切そうに抱きしめる。
「ごめんね……へんなこと、言って。わたし、も、ヒロ君の、事が、大好きだよ」
 嗚咽混じりにそう言うと、幸は体ごと後ろを向き、広岸の胸に顔をうずめて堰を切ったように声を上げて泣き始めた。
 浴衣越しに、幸の細い肩が小刻みに上下しているのが分かる。
 そのからだの温度や、その存在そのものが、震えるほどにいとおしい。
 ああ、俺は、幸が好きだ。これはもう、どうしようもない。

 やがて花火の音が止み、人々はそれぞれの家路に向かって歩き出した。
 幸も既に泣き止んでいたが、土手に座り、広岸にもたれかかったまま、もう花火の上がらない静かな空を眺めていた。
「来年も、来ようね」
「ああ……そうだな」
 幸の指が広岸の手のひらを探し、それを見つけると指と指を絡めた。幸は指を絡めて手を握るのが好きだ。
「再来年も、その次の年も、その次も……。私はずっと、大好きでいられるよ」
 幸はあの指輪をしていた。
 そして広岸の指輪の感触を確かめながら、幸の指が手のひらをそっと握り締めた。