幸福論 XII
thehappiness

 盆になり、父親の墓参りに出かけた。
 行ったのは例の四人だったが、父の前に違う男を連れて行く母はどんな気持ちなのだろう、と幸は思った。
 正直なところ、幸は微妙な心境だった。
 自分たちほんとうの家族の間に、会ったことも無いはずの他人が割って入り、こうして手を合わせている。
 これほど親しくなってもなお、丘田との間には他人という壁が薄く隔たっているような気がした。
 直方体の墓石も、目の前の丘田も、どちらも自分の父親だとは思うことができない。
 それでも、母親のために自分はよい子供でありたい気持ちから、新しい父親になついているふりをしなければいけなかった。
 “ふり”などとは思いたくはなかったが―――この小さな違和感が消えてなくなる日がいつか来るのだろうか。

 その少し前に、広岸と日帰りで海へ行った。
 高速バスで三時間。広岸とバスに乗るのは初めてだったが、幸は気に入った。
 寝ている振りをして広岸の肩に頭を乗せたり、隙を見つけては人目に隠れてキスをしたり。そういうことのひとつひとつがとても新鮮で嬉しかった。
 広岸の前では裸になるよりも水着を着てみせる方が恥ずかしかったが、そう言ったら広岸は何故だか笑った。
 スタイルに自信があるわけではなかったが、広岸が気に入ってくれるこの体つきは自分でも嫌いじゃない。
「運動は苦手だけど水泳はできるよ」
 と言いったとおり、広岸はとてもきれいなクロールを披露してくれた。
 浮き輪にしがみついている幸を沖まで引っ張って行くと、遠く浜には人が沢山いたが、ここまで来ればまばらで、聴こえるのは波の音だけだった。
 急に浮き輪がぐい、と立ち泳ぎの広岸の方に引き寄せられ、幸に唇を重ねた。突然のことだった。
 広岸は急に恥ずかしくなったのか、すこし顔を赤くしたが、幸はそんな広岸がいとおしかった。
「しょっぱいね」
 と幸は言い、二人は笑った。

 夏休みはとても長く、広岸と会う時間はとても短かった。
 この膨大な時間が与えられることにより、いままで生活に追われていて気にもならなかったことに深くなやんでしまったり、家族と一緒にいる時間がとても息苦しく感じたりした。
 そんなとき、広岸のことを思い出す。
 大きなくまのぬいぐるみを抱きしめながら、広岸の言葉のひとつひとつを何度も思い浮かべ、それに色んな解釈を加えては喜んだり悲しんだりした。

 花火大会の夜、広岸は幸を背中からきつく抱きしめて、聴いたこともない苦しそうな声で言った。すべてを投げ出して幸にすがるような、あの声。
 ―――俺はこんなにも、お前の事が……好き、なのに。
 あのひとことが聴けたから、自分は今生きていられるのだ、と思う。
 休みに入ってからというもの、得体の知れない憂いに、ゆっくりと不気味な速さで蝕まれているのだ。

 広岸のあの寝言が、未だにはっきりと心に残っている。
 それでも広岸は、他の誰でもない、幸を好きだと言ってくれた。結局何も分からないままなのに、その言葉はすべてを帳消しにしてしまう程、とにかくうれしかった。

 次に会えるのはいつなんだろう。
 次会ったらどんなことを話そう。
 どの服を着ていこう。
 何をしてあげよう。
 何をしてもらおう。

 晩、広岸の声がどうしても聴きたくて電話をした。
「あのね、明日ってあいてる?」
「明日か……明日はバイトがあるな。休もうか?」
 ほんとに? なら休んでよ。そして私のところまで会いに来て。
「……ううん、別にいいよ。日曜日には会えるんでしょ?」
「ああ。悪いな」
 私の嘘つき。本当は毎日でも会いたい。片時でも離れているのが耐えられない。
「ねえ」
「なに?」
「言って」
「え?」
「お願い、言って」
「あ、ああ……好きだよ」
「……ありがと。私も、大好きだよ」
 何をやっているんだ、私は。

 前回の生理が終わってからもう二ヶ月が経っている。
 このことは広岸には言っていない。生理が遅れること自体はしょっちゅうだったが、広岸とはじめてしてからは、無視できない問題だった。
 そのせいか最近は、一人でいるほどにやり場の無いあせりや憂鬱がまとわりついてくる。

 夏休みの最後の日曜日、広岸は初めて幸の住むマンションまで遊びにきた。
 広岸の家からは電車とバスを乗り継いで二時間もかかる。それが広岸との距離だ。
 幸はバス停まで広岸を迎えに行った。
「すごく田舎で、驚いたでしょ」
「そんなことねえよ。俺のところも似たようなもんだ」
 そうなんだ、と幸は言った。
「じゃあさ、次は私がヒロ君のところに行くよ」
「そうだな。待ってるよ」
 バス停から十分ほど、少し古びた住宅街のなかを歩いたところに、二棟のマンションが建っている。東側の棟に、幸は住んでいる。
「ほら、由紀はあっちの方のマンションに住んでるんだ」
「本当に近いんだな」
 由紀は今ごろどうしているだろうか。夏休みに入ってから会ったのは、花火大会の時のたった一回のみだった。

 幸の母親は遅くまで仕事に出ているので、家には誰もいない。
 幸は自分の部屋に広岸を上げ、窓のカーテンを閉めた。
 自分の空間であるこの部屋に広岸がいることは、とても不思議な感じがした。
「ビデオでも見よう」
 幸は言い、録画してあったドラマを再生した。
 ベッドに広岸は座り、幸はその隣にぴったりとくっついて腰掛ける。
 照明のリモコンに手を伸ばして部屋の明りを消すと、そこはまるで夜のように暗くなり、テレビの光だけが二人を照らしていた。
 幸はテレビには目を向けずに、テレビを眺める広岸を見つめた。

 広岸が、こんなに近くにいる。
 私の部屋に、広岸がいる。
 幸は広岸の首筋にそっと唇を当てた。
「えっ、ちょっと、おい」
「気にしないで」
 ぐりぐり、と顔を広岸の胸に押し付ける。
 広岸の匂い。
「ねえ、キスしよ」
「どうしたんだよ」
 暗がりの部屋。きらきらとめまぐるしく顔を照らすテレビの明り。
「お願いだから」
「おまえ……んっ」
 広岸の声を幸の唇が塞いだ。はじめは驚いて目を見開いていたが、幸の寂しさのようなものが絡まりあう舌をとおして広岸に流れていき、それを感じ取ったのか広岸はやがて目を閉じ、身をまかせた。
「私ね、」
 どちらからともなく唇が離れたあと、視線を下に落とし、幸は呟いた。
 しかしその後の言葉が続かない。
「……」
「どうした?」
「……ううん、やっぱりいい。気にしないで」
「言えよ」
「……」

「私ね、本当はお母さんに再婚して欲しくないのかもしれない」
 と、幸は言った。
 本当はそんなこと考えたことも無かったが、なんとなく口にした後、そうなのかもしれない、と思った。
 そして、正体の分からないこの不安も、きっとそのせいだ、と。
「……そうか」
「丘田さんはいい人だし、私は好きだよ。それに雅兄だって面白いし、相談にも乗ってくれるし……だけど……」
 幸がそう言っている間、広岸は黙ったまま静かに幸の言葉に耳を傾けていた。
 それだけのことがたまらなく嬉しく、広岸のこういう部分にずいぶん救われている気がする。
「なんか……よくわかんないけど……私だってどうして欲しいのかよく分かんないけど……。ああ、私、何が言いたいんだろ」
 と言い、誤魔化すように幸は苦笑いした。
 頭の中で霧がかかっているような、もやもやとした感じ。
 その原因は何かは分からないし、どうすればその霧が晴れるのかも分からなかった。
 母親のことだけではない。他にも、いろんなことが複雑に絡み合ったものが網になって、心にまとわりついている。
「……」
 広岸は真剣な顔をしたまま黙り込み、何も言わなかった。
「ヒロ君……いま何を、考えてるの?」
「……」
 なにも―――言わなかった。

 最終のバス待っている間、バス停近くにある小さな神社の石階段に肩を並べて座っていた。

 夏はもうすぐ終わる。
 道路に転がる、白い蝉の死骸。つくつくぼうしの悲しそうな鳴き声。
 八分遅れでやってきたそのバスに乗り込むと、広岸は中から手を振り、幸も、ばいばい、と走り始めるバスに向かい笑って手を振りかえした。