なにもない。
なにもない。
なにもない。
何も持っていない。何も手に入れることはできない。何も考えることができない。
この道の先がどうなっているのかも分からず、いや、分かりすぎていて何も分からない。
何かを得るために誰かを傷つける。それはやむを得ない場合もあるのかもしれない。
だが俺は、何も得たくない―――そんな理由で、幸と別れた。
違う。
まだ、別れたわけではない。
そうだよ。こんなに後悔するんならやり直せばいい。
今ならきっと間にあう。まだ別れの一言も出ていない。第一、俺はメールをまったく返していない。
あの恋愛は俺の心の中だけで完結していたに過ぎないかもしれない。
やりなおせる。やりなおせる。
やりなおしたい。幸と、もう一度―――
なんて、
俺は、自分の心に嘘をついた。
そう思わないといけないような気がしたから。
そう思ってみればそれが本当の気持ちになるのかもしれなかったから。しかしそんな浅はかな希望は、俺の錆びた心には通用しなかった。あの日から―――閉じたまま。結局、開かずじまいだった。
本当は、
本当の本当は、俺は、そんなこと思ってはいなかった。やりなおしたいだなんて。戻りたいだなんて。そんなことは、本心ではなかった。
答えなんて、もう決まっていた。
俺が返すメール。返すべきメール。
これで、終わる。ようやく、今度こそ終わる。そう、“終わり”だ。俺が最も恐れ忌み嫌うモノ。
俺は、この手で終わらせることを選択した。
『俺からも、ありがとう。すごく楽しかったよ。さようなら』
そして、送信ボタンを、押した瞬間。
ぱたり、と。
こころが反転する。
猛烈に、どうしようもなく、幸に会いたい気持ちが、こらえきれないくらい、おおきななみが、おそってきて、ああ、あいたい、あいたい、さち、いますぐ、ああ、―――畜生。
畜生、畜生、畜生。
なにが本心だ。
自分の本心なんて、一度も分かったためしがないくせに。
まだ十一月だというのに、真冬のように寒かった。雪が降りそうなほど凍える日だった。
踏み切り。冷たい音を響かせ、目の前に遮断機が下りる。特急電車が警笛を鳴らし、勢いを殺さないまま踏切へと向かってくる。
もし、今ここに飛び込んで死んだら、そのことが幸に伝わるのはいつだろう。地を鳴らし風を弾きながら通過していく電車を見ながら、広岸はぼんやりと思った。
帰りの電車に乗った。いつもの電車だった。いつもの車両に乗ったが、都奈実はいなかった。都奈実とはもう会えないかもしれない。なんとなくそんな予感がした。
三十分ほど電車にゆられて、降りる。人が少なかったせいもあってか、降りたのは広岸一人だった。寂れた無人改札を通ると、そこに座っていた。都奈実が、座っていた。ひざを曲げ両手を回して、うずくまるように、冷たそうなベンチに座っていた。暖房も何も無い、北風の吹きぬける改札口で。
「おい」
声をかけた。が、反応がない。
広岸は、そばにある自動販売機でホットの缶コーヒーを買い、都奈実の頬にくっつけた。
じゅう、と氷の溶けるような音がしたかしなかったか、都奈実は、
「ぎゃー」
と声をあげ、飛び上がった。
「なにすんのよ!」
「こんなとこで寝るな。風邪引くぞ」
「放っといて」
ぽい、と缶コーヒーを都奈実に投げ、広岸はその隣に座って自分の分を開ける。ベンチの冷たい感触。
「飲め」
「あ……ありがと」
「……」
都奈実は、缶コーヒーのプルタブに指を入れて開けようとしたが、なかなか指が入らない。かりかりと、タブの淵をひっかいて四苦八苦している。
広岸は都奈実の缶を奪い、それをあっさりと開け、都奈実に返した。
「ごめん……指が凍ってるみたいで……」
ぎゅう。手のひらを解凍するように、両手で熱い缶を握る。一口コーヒーをすすり、ほう、と真っ白な息を吐いた。
「で、こんなとこで何してんだ?」
広岸は訊いた。分かっていたけど、訊いた。
「何でもいいでしょ。べ、べつにあんたなんか待ってた訳じゃない、から……」
苦しい台詞だった。
「ふうん」
コーヒーをすこし口に含み、それを飲み込む。食道を熱しながらそれがおりていき、胃の中に温かい感覚が広がる。
「ただ、昨日のこと……謝ろうと思って……でも、学校早く終わっちゃったから……」
「……」
やっぱり待ってたんじゃねえか。
「やめろ、気持ち悪い。似合わないことすんな。あれくらいのこと気にしてんじゃねえ」
噛み付いてくるかと思ったら、
「……ありがと」
と、照れくさそうに、さらに似合わない返事をした。
「学校でね、色々あって……ちょっと、まいってたの」
「悩むような柄かよ。飲んだら行くぞ」
残ったコーヒーを飲み干して、立ち上がった。
憎まれ口をたたいても、都奈実の反応はといえば、安心したような表情をするだけだった。
「ねえねえ、あんたってさ、彼女とうまくやってんの?」
冷やかすような口調で、隣を歩く都奈実は言った。
「……俺が一度でも、彼女の話をしたことがあったか?」
思えば、一度たりとも、幸の話を都奈実の前で出したことは無い。十子の話題につながってしまうのが怖くて意識的に避けていたのかもしれない。
「え……じゃあ、もしかして本当に彼女いないんだ……」
いない。何の間違いもなく、彼女はいない。
別れた、なんて言えなかった。言葉にしてしまえば、また自分を傷つけることになってしまいそうだったから。広岸は沈黙し、それを肯定に代えた。
都奈実は、そっか、などと独り言のように繰り返し呟いた。そして。
「あのね、」
来る。直感で、そう思った。
「あたし、」
やめろ。
「広岸の」
やめろ。その先を言うな。
「ことが」
やめろ。やめろ。やめろ。
何でそんなことをする。なんで終わらせようとする。
なんでそんな死に急ぐような真似をするんだ―――
「やめろ」
はやまろうとする都奈実を制止する。
「え……?」
都奈実の気持ちぐらい、ずっと気付いていた。そんなことに気付かないほど鈍感ではない。十子と付き合っていたころから、都奈実が自分のことを見ているのは知っていた。
俺と同じ高校を黙って受験した理由も分かっていた。それに、違う学校に通っていながら、これほどまでに毎日、帰りの電車が偶然一致するはずが無いことぐらい、気付いていた。
だけど。
バランスが崩れるのをきっと都奈実は誰よりも気にして、ずっと黙っていたのだ。それも俺はちゃんと分かっていた。そして、そういう気遣いのことも、友情というのだと、確かに思っていた。
十子もいなくなり、何のしがらみも無くなれば、お前はもうお構いなしだというのか? それが崩れてしまうことを覚悟した上で、お前はそんなことを言うのか?
終わりを迎えるのが嫌なら、始めなければいい。お前はそれを一番知ってるんじゃないのか?
「聞かなかったことにしといてやる」
都奈実はぴたり、と足を止め、駄々をこねるように、
「やだ」
と呟いた。
「やだ。あたしはちゃんと言う。言うから聞いて。聞け。耳を塞ぐな! ……好き。あんたのことが好き。ずっと前から」
あーあ。
「……」
お、ま、え、は、おれに、
「どうしろっていうんだよ」
「付き合ってよ。つきあって下さい」
「……」
立ち止まる都奈実に背を向け、広岸は自分の家の方へ歩き出した。
「なんか言いなさいよ! こら! 無視するな!」
ぱたぱた、と後ろから足音が近づき、肩にぐい、と手が掛かる。
広岸は振り向く。都奈実。ずいぶん小さくなった。なんだか、まるで。これじゃあ、普通の女の子じゃないか。
「そうだな。付き合ってみるのも悪くないかもしれない」
「え……それじゃあ、」
「半年……いや、保って一年、ってとこか。まあ、それなりに楽しいだろうな。俺とお前のことだから喧嘩ばっかしてんだろうけど」
「なに、それ……」
「最後はきっとすっげえ大喧嘩して別れるんだぜ。そんで、なんとなく仲直りして、たまに会っては自分の恋人の愚痴言い合ったりして。あのころはどうだった、とか言って笑いながら、ときには気まずくなりながら、そうやって歳取ってくんだよ」
「や、やめてってば。なにそれ。何考えてんの? ふ、普通言う? そんなこと」
狼狽した様子の都奈実に、
「俺はな、」
と言い放つ。
「お前がもうちょっと頭のいいやつかと思ってたよ」
ふざけないでよ、何でそんなこと言われなくちゃいけないのよ、あたしのことなんだと思ってんのよ、あたしの気持ちはどうなんのよ!
と、いつもならそう来るはずだった。そう言われてしまえば、すこしは安心できたのかもしれない。
「……」
今となっては、それすらもない。広岸の言葉に、女の子として、ただ傷つき、うつむいている。こんな都奈実の姿なんて、見たくなかったというのに。
都奈実は、下を向いたまま。
「……十子がね、よく言ってたよ」
その口から初めて出る、“とおこ”の名前。心臓がひとつ、大きく打つ。
「“都奈実と広岸は仲がよくて羨ましい”って。あたしはね……それを聞いて、ふざけんなって思ったよ」
訥々と語り出す、都奈実。
「十子の前だと、あんた、あたしに見せたこと無い顔で笑うんだもん。あたしなんて、一山いくらの男友達とおんなじ扱いだったのに。でも十子はね、それが羨ましいっていうんだよ。許せないよ」
「何が言いたいんだよ」
「別に。ちょっと思い出したから言ってみただけ」
と、力が抜けてしまったように、都奈実は言い捨てた。
「あんたと同じ学校入れなかったし、中学卒業したあと、もうずっと会えないのかと思ってた。こうやってまた話すことなんてできないんじゃないかって、思ってた。そしたら……だって……いるんだもん、あんた。やっと諦めかけてたのに」
「……」
なにも、言わなかった。
「こんなこと言っても、また気持ち悪いとか言われるんだろうけどさ。すごく、すごく嬉しかったんだよ。あんたにまた会えて、もうどうしようもないくらい、嬉しかった。……ははっ。今だから言うけどね、あんたと一緒に帰るために無理してたから、学校とか、結構もうぐちゃぐちゃなんだよ。馬鹿みたいでしょ? ねえ。何とか言ってよ。馬鹿なんだよ……あたしは。ああもう、なんであんなこと言っちゃったんだろ。この関係が壊れるのが怖くて、いままで何年も、我慢して、我慢してきたのに。ずっと黙っとけばよかったのに……ずっと言わないって決めてたのに……やっと、会えたのに……」
泣き出してしまいそうな声なのに、都奈実はこらえているのか、その目に涙はなかった。どんなときだって、涙を見せない。それが、都奈実という、一人の女の子の、強さ。
誰にも弱みなど見せず、いつも気張っていて、皆の頼りにされていた、都奈実。
腕っ節が強くて、小さいころは男の子をよく泣かせていたという、都奈実。
情に厚く、間違ったことは決して認めなかった、都奈実。
最後の意地で涙をこらえている、その都奈実に、かけてやる言葉が、見つからない。
「本当は、」
広岸は苦し紛れに言った。もう、言うしかないと思った。
「彼女いたよ。昨日まで。いや、もうちょっと前かな。でも、駄目だった」
都奈実はすこしだけ驚いたような顔を見せ、それから力なく、そうなんだ、と言って俯く。
「どうして……別れちゃったの」
どうして。
「さあな。何でだろうな。気がついたら、別れてたよ」
ごまかしではなく、本当に、わからなかった。理由なんていつだってあやふやだ。ただ結果が、そこにあるだけなのだ。
都奈実は俯いたまま、何の返事もなかった。すると、
「ねえ、」
と、唐突に顔を上げた。そして、感情が抜けてしまったような、その瞳で―――広岸の目を射るように見つめて。
「ひとつだけきいていい?」
「……」
その人形のような視線を黙って受け取り、広岸は、静かに頷く。
「あんた、今でも、十子のこと、好きなの?」
ずきん
痛いほど胸が鳴り頭の中が熱くなっていく。
言葉と言葉がごちゃまぜになって脳をかき乱す。
十子の名前、とおこという響き、好きの定義、遡る記憶。
「なん、で、そんなこと訊くんだよ」
質問を質問で返すのが、精一杯―――
「……。そんな気が、したから」
「十子のことは、」
意識より口が先行し、都奈実の言葉を打ち消した。
覚悟をこめて。言ってやろう。言って、その言葉を、事実にしよう。これが、けじめだ。これが、過去との訣別。
なのに、その言葉はのどにつまり、言おうとしても、なかなか出てこない。言いたいのに。言わなきゃいけないのに―――十子のことは、過去だ、と。
簡単なことなのに、それで何かが変わるわけでもないのに、なぜ、そのひとことが言えない―――
「あたしね、」
「……」
広岸の決断より、都奈実の言葉の続きの方が先だった。
驚いたが、なぜだかすこし安心している自分がいた。
「しってるんだよ。広岸は、たぶん、しらないとおもうんだ」
「……何の話だよ」
「とおこの、携帯番号。あたし、しってる」
―――
―――
―――
「痛いよ……放して」
はっとして、手を放した。知らない間に握っていた、都奈実の細い肩から、手を、放した。ずいぶんと力をこめてしまっていたのか、指の筋肉に痛みが走る。
俺は。
できる限り冷静に。
震える声と、こみ上げるなにかを押さえて。
必死で正気を保ちながら。
疲れきったような容貌の、今にも倒れてしまいそうな都奈実に向かって。
「お前……今、なんて言った」