埃の積もったカバーをとると、懐かしい色があらわれた。
あのころと同じ黒い光。見慣れた傷跡。
最近まで、何度も、何度も何度も、この光景を見てきたのに。
それに触れていたあのころは、もう何十年も昔のことのように思えた。
そのふたを、開けると―――
八十八の白と黒が、今も変わらずに、そこに並んでいた。
椅子に座り、鍵盤に手をのせると、冷たく滑らかな感触が十本の指に伝わる。
しかし、しばらくその上に手を置いたあと、広岸は再び椅子から立ち上がる。
なにかが、違う。
椅子と鍵盤との距離が微妙におかしいのだろうか。
椅子の高さは、六ヶ月前から変わっていないはずだった。それなのに、何かが違う気がする。
すこし椅子を後ろにずらし、座ってみる。それでも、なんだかしっくりこない。こんなふうでは、なかった気がする。
前に動かし、横に動かし、試行錯誤したが、結局その違和感は消えなかった。広岸は諦めて、中途半端な位置のそれに座り、再び鍵盤に指を置く。
―――もう、あたし、どうやってあんたに接していいのか分かんないよ。
―――そんなの、今までどおりでいいじゃねえか。
―――無理だよ。
―――俺は……お前の気持ちくらい、わざわざ聞かなくても、昔っから知ってたんだよ。だから今更、何も変わんねえよ。今までどおりでやってけばいいじゃねえか。
―――し、ってた? ずっと知ってたっていうの? 十子と付き合ってるときも? こうして再会してからも? あんたは分かっててやってたっていうの? あはっ、あはは、ははははは! あんたってさ、あんたっていう人間はさ、ほんとうに、―――
「……」
ふう、と大きく息を吐いて、昨日の言葉を頭から消し去る。
終わっていった多くのものと引き換えに手に入れたのは、たった十一桁の数字だけ。
この無機質な数字が、過ぎ去ってしまったあの日々と繋がっているなんて、とうてい思えなかった。
こんなものの、こんなもののために。
すぐにその番号に電話をかけることはしなかった。いや、できなかった。第一、十子と話ができたとして、何を話せばいい? 今を生きる十子と接触することに、一体どれだけの意味がある?
それに、都奈実はあんなにも変わってしまっていた。十子が、そうでないという根拠はまったく無いじゃないか。
“十子”の文字が表示された携帯電話を握りしめ、迷い、居間を歩き回っていたその時。
ふと見上げると、あったのだ。ピアノが、そこにあった。
十何年も練習してきた、古いピアノ。物心ついたころに親に買い与えられた、中古の家庭用ピアノ。
そして、ほとんど無意識に。吸い込まれるように、その椅子に座っていた。
なんとなく。それ以上でも以下でもない。過去と自虐と嫌悪の塊であるこれに対峙して、弾いてみようか、と、そう思ったのだ。
十子はたった一度だけ、この家にやってきたことがある。このリビングのソファに腰掛け、なにか弾いてみせて、と、広岸に言ったのだ。
十子のやさしい視線を背中に心地良く感じながら弾いた、あの曲。
ささやかな思い出の時間を満たしていたあの曲。
それは。
それは。
ええと―――
思い、出せない。
本棚から、当時弾いていた楽譜をいくつか選んで、譜面立てにひとつずつ並べてみる。
弾いてみれば、きっと思い出せると思ったのだ。それなのに―――
あれ、
おかしい。
五線譜って、音符って、こんな形だっけ。
普段書いているはずのひらがなや漢字の形に違和感を覚えることが、たまにある。いま、この五線譜に並ぶ記号を前に感じたのは、そんな感覚だった。
なぜ、読めない。
文字を忘れてしまって、楽譜と言う文章を読み上げることができない。
それに、指が、固まってしまって動かない。指って、どうやって、動かすんだっけ。
そんな―――そんなはずは無い。たった半年のブランクなど、今まで弾いてきた時間に比べればほんのわずかなのに。たったそれだけの間が空いただけで、こんなにまで抜けてしまうなんて考えられない。
「はは、ははは……」
おいおい。なんだよ。なんだよこれ。
冗談だろ。これって、本当に、まさか、おい、嘘だろ。
弾けなくなっちまった。
まだ幸と出会う前。高校へ入学して二年間、心が動くことは一度も無かった。川の底の砂のように、ただ沈みながら、時が流れていくのを見ているだけだった。心から楽しいと思ったことは一度も無い。やりたいことなど無く、やりたくないことばかりが目の前に積まれていくばかり。鬱屈した日々。
―――あなたに教えることは何も無い。
本当は分かってたよ。俺に足りないもの。何も感じない人間が、聴くひとに何かを感じさせることなんて、出来るはずが無いのだから。譜面を読み取り、それをただ再生するだけ。何の感情も抱かず、ただ、楽譜を音に翻訳するだけ。他人に何も与えられず、自己満足すらもできないのなら、ピアノを弾く意味などないのだ。
しかし、半年前、幸と出会って。
俺は何度も心から笑ったり、悩んだり、やさしい気持ちになれたりした。あんな感情、ひさしぶりだった。遠いどこかに置いてきてしまった自分を、あの時は取り戻せたような気がした。楽しかった。俺は、今なら言える、あのとき、心から、ほんとうに、楽しかった。
「……」
ああ、楽しかったなあ。楽しかったよ―――
鍵盤のひんやりとした感触。
人差し指で、白鍵をひとつ、ゆっくりと押さえてみる。
どこか心もとない音が、ちいさく響いた。
都奈実とはもう会えない。予感ではなく、確信に近いものを感じていた。
やはり電車に都奈実は乗っていなかった。当たり前だ。あんな別れ方をしたのだから。でもこれでよかった。こうなることはきっと初めから決まっていた。これで、もう俺を見ている人間はひとりもいなくなった。
昨日―――都奈実をあんなふうにしても、とくに何も感じなかった。それは彼女が十子や幸と違って、弱い人間じゃないと思ったからだろうか。
馬鹿らしい。そんな人間なんて、いるはずがないのに。
「さて」
電車を降り、誰もいないホームで広岸は伸びをしながら言った。
外は、今にも降り出しそうな雲行き。空が黒く地上を覆っている。
「……」
どすん、と音を立てるように、改札を出たところにあるベンチに腰掛けた。
ちょうど昨日、都奈実が座っていた場所だ。都奈実はここで、待っていた。
昨日ほどではないにしろ、ドアのないこの小屋を吹き抜ける風はとても冷たい。
俺は。
一体何がしたいんだろう。
こんなところで座っていても、何も起こりはしない。
都奈実を待っているんだろうか。例えそうだとしても、都奈実は自分より早い電車で帰ってしまったかもしれない。それに、今更都奈実にあったところで、何も変わらない。
それでも都奈実は、会える保証のない俺を―――何時間も待っていた。
と、そんなことを考えながら、広岸はベンチにただ座っていた。
おそらく何十分かが経過し、冷えた空気が湿っていくのを感じたそのとき、駅舎の外から小さく、さー、という音が聴こえてきたかと思うと、その音はあっという間に、地面を激しく打ち鳴らすほどに大きくなった。雨だ。
そういえば、幸と会う日には、結局一度も雨が降ることはなかった。
幸。その名前の響きが、今ではもう、懐かしい。
「あいつも、男運無いよなあ……」
なんて。すこし笑って、ふう、とため息をつく。それは真っ白な吐息になって、切れかけの蛍光灯の光にとけていった。外はもう、暗闇だ。寒さに震える足をさする。
いま何時なんだろう、ふとそう思い、凍てついた手で上着のポケットから携帯を取り出す。携帯の時計は、七時三十八分を表示していた。驚いた。もう一時間以上も経っていたのか。
ほんと、何やってんだろうなあ、俺は。
一体いつまでこうしているつもりなんだろうか。
「……」
実際、いつまでここにいよう。この大雨の中、傘もないのにどうやって帰ろうか。こんな寒さの日にずぶ濡れになって帰れば、風邪はきっと免れない。
それなら。雨がやむのを待とう。
だが、窓越しに見える雨雲は黒々と分厚く、いつ晴れるのか見当もつかない。もしかしたら明日かもしれないし、あるいは一週間降りつづけるのかもしれない。
ぼうっと、動きのない雨雲を眺める。
「……ふっ」
広岸は、笑った。
止まない雨を待ちつづけるこの状況が、あまりにも象徴的だったから。
待っていたって仕方がないのに、あのときから、俺は、何かを、ずっと、待ちつづけているのだ。
この鬱懐から救い出してくれる、“何か”を。
分かってる。そんなもの、ありはしない。いくら待っていても、そんな“何か”が現れることなんてない。誰もこんな甘ったれを助けてはくれない。
結局は、自分―――そう、自分なのだ。自分が変わらなければ、何も変わることなんて、ない。
それでも。
誰かに言って欲しかった。
ほんの一言だけ、言ってくれればそれでよかった。
“他人に期待するな”―――その言葉だけもらえれば、俺はきっと、前へ進むことができる―――
なんて、馬鹿みたいだ。結局期待してんじゃねえか。
ははは。じゃあ、期待ついでにひとつ。
これで最後だ。
これで、何かを待つのはもうやめだ。
これが終われば、もう俺は、ちゃんとしよう。うまく生きられないのを誰かのせいにするのもやめだ。
ちゃんと勉強だってするし、またピアノも練習しよう。一から少しずつやり直せば、すぐにまた思い出せるだろう。先生を見返してやるのだって悪くない。
おっ、なんだか楽しくなってきたぞ。
さて―――それでは終わりを始めようか。
都奈実は、昨日、こう言った。
―――この番号、二年も前のだから、もう通じないかもしれないよ。
つまり、都奈実に教えてもらった十子の携帯番号は使えるかどうか分からない。もう携帯を変えている可能性だって十分にあり得る。
俺が期待するのは、それだ。
この携帯は、十子とは繋がっていない―――それを、期待する。
携帯を握る手に、緊張が走る。震えているのは、寒さのせいだけではない。
冷たい指先で、メモリダイアルから十子の番号を呼び出し、発信ボタンを―――押し、た。
どくん。
アスファルトが雨を弾く音と、電話の向こうの雑音とが入り混じり、ざー、という音が頭の中を満たしていく。思考のすべてをその音に注ぎ、その沈黙の次を待つ。
長い、長い沈黙。
大きく響く、心臓の音。息が、詰まる。
そんな中、ふと、もしも十子が出たらどうしよう―――そんな考えが頭をよぎる。
そんなことは考えずに、いや、考えないようにしてやっとここまで踏み切ることができたのだ。そしてそのボタンはもう押してしまった。
もう、後戻りはできない。
くそ、それにしても長いな。ほんの数秒のはずなのに、永遠にも等しい長さを感じてしまう。
早く。
早くしてくれ。
早く俺を解放してください。
頼むから。
なあ。
お願いだよ。
―――
―――
ぷるる、
という音はしなかった。
沈黙の次にやってきたのは、―――声。
胸が、裏返ってしまいそうなほど、大きく鳴った。
そして、
「おかけになった電話番号は、現在―――」
「……」
ぱたり、と。
静かに携帯を閉じた。
そのまましばらくは、身動きがとれなかった。
心臓がすこしずつ落ち着いていくのを待ってから、ぐったりと、ベンチにもたれかかる。
降りしきる、雨の音。
「……これで、よかったんだよな」
すっかり、力が抜けきってしまった。
これが、望んでいた結果。
仕方がないんだよ。今までだって、これからだって、
終わってしまえば、
そう、
こんなもんだよ。
「ふうっ」
立ち上がり、大きく伸びをする。
すがすがしい、とまではいかなくても、すこしだけ、穏やかな気分になった。
それでも、十子の声、ちょっとは聞きたかったな。十子は今、どんな風になってるんだろうか。見違えるくらい綺麗になっているかもな。
うん。
これでいい。
何ひとつ、事態は変わっていないけど。
俺の中での、静かな決着は、これでいい。
理由なんてどこにもなく、答えはいつも見つからないけど。
そのままでいい。生まず壊さず、ありのままで。
俺は、ここにはいない十子に向けて、
「ありがとう」
と、幸の言葉を借りて言った。
雨は止むどころかその勢いを増し、暗闇の中、すべての音を打ち消すかのように地面を激しくたたいている。それに混じって、電車がホームに入ってくる音が聴こえた。
二、三人が改札を出、広岸の目の前を通り過ぎていく。背広姿のそのサラリーマンたちは、大雨の中に小走りで出て行き、二人は迎えの乗用車に、一人はタクシーへと駆け込んでいった。
さて。俺は濡れて帰るとするか。
駅の出口は大きな水溜りになっていた。思い切って、その中へ第一歩を踏み出すと、靴の中があっという間に水浸しになった。
「待って」
後ろから、声がして、
広岸は振り返る。
彼女は、照れたように微笑むと、
その手に持っていた傘を、すこしあげて見せ、
「風邪ひくよ」
と。
まるであのころのように、そう言った。
幸福論 "the happiness" ―――終