片割れ (5)
a pair

 最近すこし有里香ありかの機嫌が悪いようだった。廊下ですれ違い、僕の方から挨拶をしても、彼女はいつものようにおはよう、と微笑むが、その笑顔はいままでとは異質なものなのだ。何かを隠しているような、ほんのわずかなぎこちなさがそこにはある。それは本当に小さな差異だったが、それが有里香の不機嫌のしるしだということが僕には分かった。僕はなんとなく彼女を昼食に誘いにくくて、ここ一週間ほどの間、昼になるとひとり教室でパンをかじっている。それでも有里香は誘いに来ない。そしてそんな僕の行動が有里香をより不機嫌にしているのかもしれない、と僕は思う。
 でも、駄目なのだ。僕は機嫌の悪い人間に近づくことが出来ないように出来てしまっている―――たとえそれが有里香でも。不機嫌や鬱の伝染から身を守るために、いつしか僕はこうなっていた。だからどんなにひとが落ち込んでいても、僕はそれを救ってやることが出来ない。
 それでも有里香はいつか僕を優しいと言った。結局のところ、自分のやさしさは他人にしか分からないが、自分のつめたさは自分にしか分からないのかもしれない。

   *

 もうすぐ世界が終わるんじゃないか、とニュース番組のゲストがふざけて言う。とはいえ、別にそのタレントだけがそう思っているわけではないだろう。この世界に住んでいて、テレビや新聞でニュースを手に入れている人間のほとんどは、そんな予感がしているはずだ。そして僕もそう思っている。たぶん世界はもうすぐ終わる
 マスコミを騒がせているのは、連日の奇妙な事件だった。山がまるごと突然なくなったり、とある無人島が地図から消えるほどの大爆発をおこしたり、空から何百台ものドイツ車が降ってきたり、死んだ人間が生き返って棺桶から飛び出したり、月と太陽が二つずつ観測されたりといった事件が毎日、世界中で起きている。テレビ局や新聞社が手を組んで長期間のエイプリル・フールを演出しているのではないとしたら、これはただごとではないんだと思う。
 しかし、ここぞとばかりに姿を現した終末思想の宗教家たちをのぞいて、多くの人は冷静だった。それは楽観なのか、それとも諦観なのかは分からないが、確かに僕も、実際にそれらの事件に出くわしたわけではないので実感はわかない。世界がどれほどおかしくなっているのか、それを目の当たりにしていない僕には分からない。そんなことよりも僕は、昨日読み始めた小説の続きや、来月の期末テストのこと、それに有里香のことの方が気になって仕方がない。どんなニュースが流れていようと、学校は休みになったりはしないし、朝の電車は相変わらず満員なのだ。世界の終わりを誰が危惧しようとも、僕の生活は何もかわりはしない。そういうものだ。

 僕はひとりで学校から帰る。有里香とはもう一緒に帰らないのかもしれない。いままでだって特に約束をしているわけではなかった。こうしてすこしずつ縁が薄れていき、最後には挨拶すら交わさなくなるのかもしれない。いつか有里香にだって好きな人くらいできるだろう。いつまでも僕たちが一緒にいることはできないのだ。僕たちは恋人ではなく、まして片割れでもない。
 梅雨の最中にしては珍しい、雲ひとつなかった青空が、入浴剤を入れた湯船のように乳白色に染まっていく。僕はその空を見上げたまま、車の行き交う道路の歩道で、ひとり立ち止まる。じわ―――と、淡く、しかし限りなく白に近づいていく空。

 ああ―――あの世界に、近づいていく。

 閃光。

   *

「どう思う?」
 二つの世界の交わった孤独な場所で、僕か、もしくはもうひとりの僕が言う。
「君の世界でも、奇妙なことがたくさん起こってるんだろう?」
「うん。起こってるね。君の方でも、起こっていたんだね」
「どうして、あんなことが起こっているんだと思う?」
「『どうして』? ということは、君は、ああいった事件がすべて原因をともにしている、と思っているの?」
「やっぱり、そう考えるのが自然じゃないかな。それに、ああいうことが起こり始めた時期は、僕たちのような《片割れ》の存在が話題になり始めた時期と一致する、という点も気になるね」
「《片割れ》が生まれたのも、世界中で起こってる怪現象のひとつ、ってことかな」
「『生まれた』という表現は、違うんじゃないかな? 思うに、《片割れ》はもともとあったものなんだ。陽子と電子、北極と南極みたいに、ふたつの世界は対になって存在していたんだ。もちろん、どちらかが欠けていては成り立たない。ふたつでひとつの世界なんだ。《片割れ》は生まれたんじゃなくて、もともとそこにあったものだ―――ということだね」
「なるほどね。ということは、言い替えると、いままでは交わらなかったふたつの世界が交わるようになったということも、奇妙な事件のひとつとして考えられる、ということだね」
「そういうことだね」
「『今までは交わらなかった』―――」
「……交わらない、線」
「《平行》、ってこと?」
「平行な直線は、交わることは、ないね」
「でも、平行であるということは、難しいことだよね」
「というと?」
「例えば、ほら」
 拾った石で、コンクリートの外壁に二本の線を引く。できるだけ、平行になるように。
「この線だって、平行に見えるけど、厳密には平行じゃない。ずっとずっと延長していけば、どこかで交わるんだよ」
「確かに、うん、そうだね。君の言いたいことは分かったよ。交わらずに平行であり続けるのは、すごく難しいバランスなんだ」
「いままで平行だったものを、何かの力で、すこしだけずらしてやる―――それだけで、世界は平行を保てなくなる」
「そしてふたつの世界は、衝突する」
「螺旋を描いて、何度も交わり合う」
「ふたつの世界がおかしくなり始めたのも、そのせい―――」
「でも、一体どうやって? 世界の軸のズレを生むような力が、どこから発生したんだろう」
 二重世界についての考察。それはただの会話の題材に過ぎなくて、僕たちの心は別のところにあった。
 片割れ同士、同一人物同士の間では、嘘もない、情報落ちもない、完全な情報伝達ができる。だが、片割れでない他人との間ではどうだろう。相手の本当の気持ちはブラックボックスの中にあって、僕たちは言語という些細な出力からその真意を探るしか無い。本心がブラックボックスである以上、言葉で言い表されたものが真実なのか、それとも虚実なのか、計り知ることはできないのだ。
 僕はもうひとりの僕に出会うまで、他人との情報伝達について疑問を抱いた事など無かった。だが、片割れという、《ほんとうのもの》を手にしてしまった今、僕は他人と分かり合おうとする事の意味を見失い始めていた。

 僕たちは一時間ほど会話をした。本当のところ、僕たちの間に会話なんて必要がない。そこにいるだけで、水や電気の流れのように、言いたいことを伝えることが出来る。余分な脚色を介さないから、嘘も、誤解も生まれない。だがこの世にいる人間は、僕と、もうひとりの僕だけではない。友達も、家族も、先輩も、後輩も、貴子も有里香もいる。僕たちはまだ僕たちだけで完結するわけにはいかない。他人だらけの世界に帰っていかなければならない。沢山の他人に囲まれて生きて行かなくてはならないのだ。そのために、言葉による会話というものを否定してしまうわけにはいかなかった。《言葉》がまったく無意味なものだとしたら、僕が今まで築き上げてきたものすべてが意味を失ってしまうからだ。だから僕たちは会話をする。言葉による虚ろな繋がりによって構成せざるをえないこの世界を、受け入れなければならなかった。僕たちが、これからも生きていくために。
 それにしても、僕たちの会話はやはり奇妙な感覚に支配されていて、言葉を交わしているうちに、それはどちらが発した言葉なのか分からなくなってくる。同じ場所で僕たちが長いあいだ向かい合い、会話をしていると、次第に、お互いの区別が付かなくなってくる。果たして僕は僕なのかそれとも僕はもうひとりの僕なのか、はっきりとした境目がなくなっていくのだ
「あんまりこうしているのはよくないのかもしれないね」
「うん。僕が一体どっちなのか、よくわからなくなってくるよ。目が回る」と言って笑う。
「それもきっと大した問題じゃないんだよ。僕は君だし、君は僕そのものなんだ。もし入れ替わってしまったとしても、構いはしないさ」
「そうだね、僕もそう思うよ」

 もうひとりの僕と会った次の朝も、僕はいつも通り学校へ向かう。家を出て、近くのバス停からバスに乗り、十分の間ゆられる。僕は毎日、一本はやいバスに乗っている。この時間帯のバスはとても空いているので、快適な通学が出来る。もうひとりの僕は毎朝、満員電車に乗って通っているという。僕はあの話を聞いてぞっとした。もうひとりの僕ともあろうものが、どうして人混みなんてものに耐えられるのだろうか。

 そして、バスに乗っている間も、僕の頭の中はあることで一杯だった。僕はここしばらくそのことしか考えていないし、考えれば考えるほど、僕は何も出来なくなっていった。自分がまさかこんなふうになるとは思ってもみなかった。
 机に顔を伏せてそんなことばかりを考えているうちに、午前中の授業は終わってしまう。昼休みだ。僕はこのときを待っていた。僕はとある女の子の方を見る。これはいつものことだが、彼女は昼食をとるわけでもなければ、友達とおしゃべりをするといった様子もない。机に広げたハードカバーの本の端を少しだけ持ち上げ、机に頬をべったりとくっつけて、けだるい姿勢で読書をしている。席を立ち、僕は彼女のそばに寄る。
「今日は何を読んでるの?」
 僕が訊ねると、彼女は本を閉じて表紙を見せてくれた。

   『宇宙哲学―――空飛ぶ円盤の惑星文明とは』

「面白そうなの読んでるね、今日も……」
「読んでない? アダムスキー」
「いや……今度読んでみるよ」
「そう」
「ところでさ、」
 僕はすこしだけ言葉に詰まり、そして切り出す決心をする。心臓がひとつ、大きく鳴る。
「昨日の返事、考えてくれた?」
 貴子は無言で僕を見上げる