今日のニュースです。
今日午前十一時頃、××県××市で、民家の一部が無くなっているという住民からの通報が××県警に相次ぎました。
警察の調べによりますと、××市の住宅街にある三十三棟の住宅が、鋭利な切断面によって一部を切り取られていたということです。付近にはいずれも破片などの破壊の跡はありませんでした。これによる死傷者は無く、警察では事件・事故の両面から調べを進めています。
次のニュースです。
今日正午頃、××市のマンションの一室から、「人を刺した」という通報を受け、警察が駆けつけたところ、一室には腹部に複数の刺し痕のある男性が倒れており、すぐに救急車で運ばれましたが、間もなく死亡しました。発見当時被害者の側には容疑者とみられる男が包丁を持って立ちつくしており、警察は男を殺人の疑いで現行犯逮捕しました。男は、被害者と二人暮らしをしていた被害者の双子の兄で、「弟が自分の片割れだと思った」「弟を殺して完全人間になろうとした」などと供述しており、警察では殺人とみて男の取り調べを続けています。
*
「有里香?」
学校帰り、駅前の図書館で僕は有里香を見つける。有里香は自習用の机に本を広げ、紙に向かって何かの作業をしていた。レポートでもやっているのだろうか。有里香は僕を見つけると、いつものように笑顔をつくって僕に返す。しかしその笑顔はやはりつくられたものだった。僕は、有里香の向かいに座る。有里香は目を本に落としたまま、こちらに目を向けない。
「珍しいね、有里香が図書館なんて」
「そうかな」
「レポートでもやってるの?」
「うん」
見れば、彼女の開いているのは中世ヨーロッパに関する本だった。世界史のレポートなのだろう。そういえば僕にも同じ課題が出されていたことを思い出す。
「僕もやろうかな。世界史のレポート」
「そう」
有里香とこうして直接話をするのは何日ぶりなのだろうか。なんとなく疎遠になり始めてからを数えると、一ヶ月ほどになってしまうのかもしれない。それほどの間僕たちは離ればなれだった。僕たちは学年は同じだけどクラスは違う。会おうと思えばいつでも会えるし、逆に、普通に生活をしていれば顔を合わせることも殆どない、そんな距離に僕たちはいるのだ。恋人でもない僕たちの仲を縛るものは何もないし、友人の一人と少しくらい疎遠になったところで、大した問題じゃない。
だけど―――この気持ち悪さは何だろう?
「素っ気ないね」
僕がそう言っても、有里香は僕の言葉をよそに課題を続けている。まるで僕から逃れるように。
「僕のこと避けてる?」
「うん」
僕は眉間あたりに一発喰らった気分になる。
「どうして?」
「さあね」
ぎゅっ、と目を閉じて少しの間うつむき、同時に有里香は小さくため息を吐く。
「自分に訊いてみたらどうかな? というか、あたしが悪いだけなんだけどね……ああもう、今はとにかく、ちょっと話しかけないで欲しいかな」
いらついているんだ、と僕は思う。有里香はいらついている。それも僕に対して。僕はそのことについてショックを受ける。有里香の不機嫌の原因は、僕にあったのだ。
*
「なるほどね」
そういって彼は僕とよく似た顔でわらってみせる。
「つまり君は、『自分に訊いてみろ』―――といわれて、本当に《自分に訊いてみている》わけだ」
僕は頷く。
「その有里香という子も、君がもうひとりの自分に相談をするなんて、思いもしなかっただろうね」
それにしても、僕はどうして有里香を怒らせてしまったのだろうか。僕にはまるで心当たりがない。昼食に誘わなくなったり、学校から一緒に帰らなくなったりしたことに彼女が腹を立てているのだろうか。でもそれは僕が一方的におこなっていたわけではないし、そうなってしまったのにはもっと他の原因があるはずだった。それが一体何なのか、僕には分からないのだ。
「君はさ、まさか僕を疑っていたりしない?」
ともうひとりの僕は言う。
「え? どうしたら君を疑うことが出来るんだよ」
「例えば、の話だよ。この場所でしばらく会話をしていると、どっちがどっちだか分からなくなってくる。そういう体験は今まで何度もあったよね?」
うん、と僕は頷く。
普段、人間の精神というのは、客観の世界から独立した、主観の世界に存在している。
すべてのモノは客観の世界に存在していて、それら客観の世界に属する存在は、すべて、ただ《ある》だけのモノだ。その客観の世界における存在は、それぞれ主観の世界から観測されることによって初めて意味づけがなされる。例えば、机の上にひとつのリンゴがあるとすると、そのリンゴ自体は客観的な存在であり、意味を持たない。しかし僕がリンゴを見る/嗅ぐ/食べる事によって、客観の世界にあったリンゴは僕という主観に投影され、リンゴがリンゴたる意味を獲得するのである。
人間にとって、見るもの、聞くもの、といった五感で感じられるものこそが世界そのものであり、その五感を感じているのは主観、つまり僕ひとりということになる。主観の世界に存在できるのはその主観の持ち主ただひとりであり、その主観の世界の中では、精神はたったひとつ、孤独だ。
しかし今この場所は、ふたつの主観が交わった特殊な場所なのだ。この場所にしばらくふたりでいると、次第に五感の共有が始まる。例えば、今見えている景色が一体誰の目から取り入れたものなのか、その境目があやふやになってくるのだ。
ふたりの精神が、ふたりの体を交互に出たり入ったりしているような感覚。最終的には、自分がどちらの体に属していたものなのか、それすらもよく分からなくなってくるのだ。
「つまりね、いつの間にか僕たちが入れ替わっていたのかもしれない。それも、何度も。僕が君の体に入っているあいだに、彼女に対して僕がなにかまずいことをした―――ということを疑うことが出来るんだよ」
「うーん、でも本当に、そんなことが出来るんだろうか? 僕が君の体に入ったことがあったとしたら、僕は今、君についての記憶を持っていないといけないと思うんだよ。でも僕は、君側の世界のことをほとんど知らないままなんだ」
「ということは、《入れ替わりは起こっていない》か、もしくは《記憶は精神とは別の存在》で、《記憶はふたつの世界の間を移動できない》、ということだね」
「うん? 二つ目の記憶がどうとか、っていう話はどういうこと?」
「そのままの意味だよ。人間の構成要素は、《肉体》、《精神(主観)》、それともうひとつ《記憶》の三つに分けられる、と仮定した場合の話だけど。僕たちの《入れ替わり》は、肉体という器から、《精神》が入れ替わってしまうという現象だ、ということができる。でもそのときに《記憶》の入れ替わりは起こらなかった―――とすれば、《精神の入れ替わりが発生》し、かつ《精神に属する記憶が保持されない》という条件と一致する、というわけさ」
「なんだか難しいね。でもなんとなく分かる気がするよ。精神、っていうのは、行動原理みたいなものだよね。《何を考えて、何をしようとするか》ってことだろう? それはどちらかというと《肉体》に依存してるんじゃないかな。肉体が乗り物で、精神がその運転手、みたいな関係だからね。でも《記憶》ってのは、《世界》《環境》に依存してるんだと思う。思い出や経験っていうのは、《環境》が作り出すものだしね。《記憶》が《世界》に依存しているのだとしたら、向こう側の世界に《記憶》を持って行けないのだとしても、辻褄は合うのかもしれない」
「つまり今のをまとめると―――《僕たちが同じ場所にいられるのはふたつの世界が交わっている間だけ》であり、結局《僕たちはもうひとつの世界に行くことはできない》、ということだね。精神が移動することは出来ても、記憶を持って行けないのだとしたら、それは本質的に移動しているとは言えないからね」
「確かに、ね。おっと、話が随分それた」
「ああ、うん」
「悪かった。有里香という子のことだったね」
有里香の顔が浮かぶ。僕はただ頷く。
「僕が言えるのは、まずひとつ、僕はその子のことは知らない。会ったことは一度もない、はずだ。そもそも、僕とその子とは、住んでいる世界が違う―――文字通りね。僕の片割れでもないその子に会う事なんて、たぶん一生できないんだろうな。まあ、その子の片割れになら、どこかで会っているのかもしれないけど……」
「うん。初めから僕は君を疑ったりはしなかったよ」
「そのかわりに、なにかアドバイスを―――と思ったけど、一体君はどうしたいんだ? 君はその子のことをどう思ってる?」
僕が、有里香のことを―――。
有里香との出会いを僕は思い返す。修学旅行の新幹線に、ふたりそろって乗り遅れたのが最初の繋がりだった。結局、ホームに二時間もふたりで取り残され、大変な目に遭ったのを覚えている。あのときは二人して随分先生に怒られた。あれからクラスが変わっても、男友達のように時間を共有してきた有里香。いったい僕は、僕は―――有里香のことをどう思っているのだろう。
「その子、有里香ちゃんと喧嘩したまま、もう二度と話さなくなって赤の他人同士に戻ってしまっても、いいと思ってる?」
と、もうひとりの僕は言う。
しかし、そんなのはいやだ、と即答できない僕がいる。
僕は有里香と他人同士になってしまった場合のことを考える。それはどんな気持ちだろう? 頭が回らない。そのときの気持ちをうまく想像できない。
たとえば学校の廊下を歩く僕。D組の教室の前で友達と話す有里香。僕は歩き、B組の前、そしてC組を通り過ぎ、D組にさしかかる。目の前に有里香がいる。有里香は依然友達と笑いあっている。僕はそんな彼女に目もくれない。僕は有里香に目を向けることはないし、目を反らしたりもしない。すれ違いざま、有里香は僕のことに気づいてほんの一瞬目をやるが、今までのような、笑顔の『おはよう』は無い。『今日のお昼は学食?』も『テストどうだった?』も『ごめんっ、ノート写させてっ』も、もちろん無い。有里香は僕からきっと目を反らす。僕の知らない、憤りのような感情をその瞬間だけ抱いて、また友達との会話に戻っていくのだ。そして僕も有里香とすれ違ったことすらすぐに忘れてしまう。
はたして、それはどんな気持ちなのだろうか? それを想像することが僕には出来ない。そんな状況を今、うまく思い描くことが出来ないのだ。
「……分からないよ。他人同士になったとしても、ふたりとも生きているわけだし、それに、他人になってしまえばまたこうして意味の分からない喧嘩をしなくても済む……」
と僕は頭の中にもやもやと浮かんでいるものを取り出しながらつぶやく。でもそれは本心なのだろうか? 僕の本心はどこにある?
「だったら、そのままでいいじゃないか。仲直りなんかしなくても」
「そう……かもしれない」
だけど―――本当に、それでいいんだろうか?
「その子以外にも、君には仲のいい友達がまだまだ沢山いる」
「うん」
「その中のひとりが友達ではなくなっても、代わりなんていくらでもいる」
「……ん……」
今僕の胸の中にあるもやもやは、いったいどういう感情なんだろうか? 悲しみ? 痛み? 苦しみ? 有里香への愛情? それとも性欲?
名前の付けられない曖昧な感情が僕の胸中を蝕む。シロアリに喰われる家のように、じわじわと浸食されていく。こんな気持ちは言葉に言い表すことなんて出来ない。
でも、彼だけは、もうひとりの僕だけは、こんな今の僕の感情を、完全に理解し、同時に、共有している。言葉にしなくたって、彼はすべて分かっている。なぜなら、彼は、僕自身だからだ。双子でもクローンでもコピーロボットでもない、純粋で完全なる《片割れ》という存在。すべての感覚を共有し、誤解なんて存在しない、もうひとりの《僕》。
「それでも、仲直りができるのならば、そうしたい?」
「…………」
胸のもやもやを、一本の細い針が矢のように突き抜けて、風船が割れるようにその霧が弾ける。からっぽの胸中の見通しが少しだけ良くなる。
「もう答えは出ているんだろう?」
世界の中で、僕のことを理解しているのは、僕の片割れだけ。
そしてそれは有里香ではない……。