本当に信じられる人は誰ですか?
その人はあなたのことをどのくらい知っていますか?
あなたの見ている景色が、その人にどう映っているのかをあなたは知っていますか?
誰かを心から好きになったことはありますか?
すべての気持ちを言葉で表すことが出来ますか?
それを相手に伝えることが出来ますか?
人と人は、分かりあえると思いますか?
*
教室の窓から見上げる空は、雲ひとつ無く、濃い青のグラデーションになっている。いつまで眺めていても空に変化はない。あの白く染まった空は見えない。
僕は空を見ながら、今は遠い向こう側の世界の事を思う。もうひとりの僕が住む、もうひとつの世界。そこには、こちら側の世界とは、ほんのすこしだけ違う町並みがあって、ほんのすこしだけ違う人たちが住んでいる。僕たちは決して向こう側の世界に行くことはできない。ふたつの世界が重なり合った瞬間だけ、向こう側の世界を垣間見ることが出来るのだ。最初にふたつの世界がぶつかり合うまでは、誰一人として、向こう側の世界の事なんて知らずに生きてきた。自分が今までやれなかったこと、見捨ててきた選択肢が、向こう側にはあるのだ。
もし今とは違う高校に通っていたら?
もし宝くじが当たっていたら?
もし交通事故に遭っていたら?
もし女に生まれていたら?
生きていくということは、確率をくぐり抜けていくことだ。運命なんて存在しないのだとすれば、僕たちは確率に選ばれながら生きている。今まで生きてきた中で、確率によって決められてきた選択肢なんて、無限にある。事故も、病気も、災害も、自分で選んだりなんてできない。すべては確率的に発生するのだ。
僕の片割れは、僕の欠けている部分を持っている。僕とは違う確率に選ばれて生きてきたのだ。僕の足りない部分は、すべて、もうひとりの僕が持っているのだ。
すべての人間の目的が、《自分の片割れを見つける》ことだというのなら、僕はもうそれを達成してしまった。完全に分かりあえる唯一の人間を、僕は見つけてしまった。
僕の心は、得体の知れない虚しさで満たされていた。今更、片割れでもない有里香と和解したところで、結局のところ意味なんて無いのだ。
その先には何もない。
片割れでもない彼女からは、何も得られない……。
学校の昇降口で有里香が僕を待っていた。
僕は無言で彼女を見つめた。有里香も僕を見つめる。僕たちの他には誰もいなくて、傾き始めた夕日だけが二人を覗いている。昇降口の中はオレンジ色の影に満たされていた。
「や」
照れくさそうに有里香は挨拶する。
「遅いよ。今まで何してたの?」
「教室にいたよ。このまえ借りた本を、読み切ってしまおうと思って」
僕がそういうと有里香は、表情をゆるめて笑顔になる。僕はそれを見てなぜか安心する。
「きみらしいね」
「そうかな」
「好きなんでしょ、本を読むの」
僕が本を読むようになったのは、貴子の影響だった。彼女はいつも本ばかり読んでいた。もっとも貴子が読んでいたのは難しいSF小説ばかりだったが。貴子と一緒に図書館へ行くようになったのが、僕が本を読むようになるきっかけだった。だがもちろん、有里香はそんなことは知らない。
「帰ろっ」
と有里香は言う。僕はその有里香の笑顔で、胸の中にじわりと何かあたたかいものが染み渡っていくのを感じた。それは僕の虚しさをすこしずつ満たしていく。
僕は謝らなければいけない。有里香と仲直りをするのだ。それは昨日、もうひとりの僕との会話で決めたことだ。そこに意味なんて無くても、仲直りをしなくてはならないのだ。そう、決めたから。
有里香が僕を待っていたのも同じ理由なのだと思う。最近何となく気まずくなっていたことを、やはり彼女もよく思っていない。このままではいけないんだと彼女も考えたのだ。しかし僕たちの目的はもう果たされたように思う。昇降口で待っていた有里香と再会したときの、有里香の表情で、なにもかもが伝わったように感じた。
自転車を引く有里香。僕はその横を歩く。
ごめんね、と有里香は言った。
「図書館で、あんなこと言っちゃって」
僕は首を振る。
「いいんだよ」
「あたし、突然、あんな態度とって。わけわかんないよね……」
すこしだけ自虐的な笑みを浮かべる有里香。
「ずっとね、勘違いしてたんだよ、あたし」
「勘違い?」
「うん、そう。勘違い。どうしようかな……やっぱり言った方がいいんだよね」
「言ってよ」
「恥ずかしいな。ここ、外だし。誰かに聞かれちゃうかも」
夕暮れの歩道。人間は僕たち二人だけだった。そばを走る広い国道には、絶え間なく車が行き交っている。
「そうだ、今から、うちに来てよ」
「有里香の家に?」
「うん。今、うち、誰もいないから……」
そういう有里香の顔にすこしだけ翳〈かげ〉りが見える。
僕が有里香の自転車をこぎ、有里香はその後ろに乗り、僕の肩につかまる。
「はしれー! もっとこげー」
と有里香は妙に楽しそうだった。僕もそれがなんだか嬉しくて、ペダルをこぐ足も軽快になる。有里香は、『ここをまっすぐ』『あそこを左』と指示を出し、僕はその通りに夕暮れの街道を疾走する。
有里香の家は駅から自転車で二十分ほどのところにあるマンションの二階だった。
「ここがあたしの部屋」
と言って案内されたのが有里香の部屋だった。五畳ほどのスペースに狭ぜまと家具やベッドが並んでいる。『ごめんね、汚くて』と彼女が言ったとおり、お世辞にも片づいている方ではなかった。これなら僕の部屋の方が綺麗かもしれない。僕は思わず笑ってしまう。そこがあまりにも有里香らしい部屋だったから。
有里香はベッドに、僕はカーペットの上に座る。
「やっぱり、自分の部屋だともっと恥ずかしいな」
有里香は照れくさそうに言う。
「へへ。まいいや。えっとね、あたしさ、きみのことが好きだったんだけどね。いや、今も好きなんだけど……。でもさ、きみが駅で彼女の人と歩いてるの見ちゃったんだ。あたしね、きみもあたしに気があるんじゃないかなって思ってたんだ。でもきみってさ、その辺よくわかんない人だから……それにそういう話してくれないしね。だからあたしも勘違いしちゃって、どんどん気が良くなって、調子に乗っちゃって……。あー恥ずかしい! ってゆー、話です。はい」
有里香が僕のことを、好き? 彼女の人って誰だろう?
「だからね、きみが彼女の人といるのを見たとき、なんだか裏切られた気分になって。自分がすごく馬鹿みたいに思えちゃって……。それにね、他の嫌なことも重なっちゃって、あたしはどんどん腹が立ってきたんだよ。だからきみのことをちょっと避けちゃったりもしたわけです。ごめんね! もうあんなことはしないよ……。だって、辛いもの。もしさ、あたしのこと好きじゃなくても、ずっと今までみたいに友達でいてよね」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「え?」
「さっきから言ってるけど、僕の彼女って誰のこと?」
「え、それは……駅前の喫茶店に、一緒に入っていったひとだよ。小柄で、北高の制服来た女の子。あれ? 彼女じゃないの?」
「…………」
そうか―――誤解。有里香はこんなくだらない誤解をしていたために、僕を避けていたのだ。
なんて、馬鹿らしい。どうして誤解などという無意味なものに、有里香との仲を裂かれなければいけないのだろう。
片割れじゃないからだ……。僕は心のなかで呟いた。有里香が僕の片割れじゃないから、こんな誤解が生じてしまうのだ。僕は有里香と分かり合う事なんてできない。
これまでも、これからも、この世界はこんな誤解が絡み合ってできている。そして僕はこの世界の中で生きていかなければならないのだ。
「……あれはね、貴子って言って、ただの友達だよ」
「え? え? なんだ……そうなんだ」
「確かに、付き合ってたこともあったよ。だいぶ昔の話だけどね……。でも今はただの友達だよ。ちょっと変わった子でさ、正直なところ、ああやってたまに会わないと心配なんだ。親心みたいなものだよ」
「……そっか」
複雑な表情をする有里香。
「きみはさ、その子のことが好きなの?」
「分からない」と、僕は正直に答える。
「じゃあさ、あたしのことは?」
「分からない」
「なんにも分からないんだね」
「うん」
「じゃあきっと、好きじゃないんだよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「僕は有里香のことが好きなんだと思う」
「あはは……どっちなのよー」
有里香はすこし苦しそうに笑い、ベッドに体を倒して枕に顔を埋める。
「でも、ありがと。嬉しいよ、すごく」
そして倒れたかと思ったら突如がばっと再び起きあがり、
「あー! そうだ!」と有里香は叫び出す。
「な、なに? どうしたの?」
「忘れてたよ。今日きみを呼んだもうひとつの理由」
「理由?」
「それ」
と有里香が指さした先には、床に広げられた大きな厚紙と、その上に散らばる―――ジグソーパズルのピース。
「ジグソーパズル?」
「そう。弟とね、やってたんだけど……出来上がらないと部屋が片づかないんだよね。だから、君にも手伝って貰おうと思って」
「いいけど……これ、何ピース?」
「五千ピース」
「大きいね」僕は言う。
「そうなのー。だから大変」有里香は困ったように笑ってみせる。
「弟さんは?」
「いないんだ、今」
「そう。……そういえば、ご両親は?」
「ご両親もいないの。あたしだけなの。もう二週間くらい……」
「どうして?」
と僕は訊く。そして訊くと同時に、歪んでいく有里香の表情から、それは訊いてはいけなかったのかもしれないと思った。
「わかんないよう! どっか行っちゃったんだよ! あたしを置いて……。携帯も繋がらないし、全然連絡もないし、もう、わけわかんないよ! あたしにどうしろって言うのよ……」
「え……?」
僕は有里香の口から出た言葉に、愕然とした。有里香の家族が蒸発? 一体、どういう事なのだろうか―――。
「弟も学校から帰ってこないし、親も仕事に行ったままだし……。学校や会社に連絡もしたんだけどね、やっぱりいなかったんだよ。家に帰ったはずだ、って……」
「捜索願は?」
「出した」
「ならきっと見つかるよ」
「見つかんないよ」
「そんなこと無いって」
「よくわかんないけど……、あたし、思ったんだ。人がいなくなるとき、って多分こんな感じなんだよ。多分これは、あたしにしか分からない感覚なんだと思う。あの人たちは、もう、帰ってこないよ」
「そう……」
「家族だからかな、分かっちゃうんだよ、そういうの……。あっ、ごめんね、変な話して。きみには関係ないのにね」
「戻ってくるよ、みんな」
「なんでそんなこというの?」
有里香はほとんど泣きそうな顔で僕を見る。
「大丈夫。今はあちこちで変なことばかり起こってるけど、きっと全部元通りになるよ」
「無責任だよ、そんなの……」
「そうかもね」
あはは、と有里香は笑い、千切れた涙を拭う。
「ほんっと、きみって何を考えてるのか分かんないよ」
「…………」
何を考えてるのか分からない―――それが人間関係の本質なのだ。
「欠けてるんだってさ、僕は」
「欠けてる……?」
「貴子に言われたんだ、昔ね。あのときは意味が分からなかったけど、今ならすこし分かる気がするよ。『欠けてる』って言葉の意味を」
「どういう、意味なの?」
「最初は、感情がない、ってことかと思ったんだ。でも僕自身が、そうではないことを知ってる。僕にだって感情くらいあるからね。感動したり、笑ったり、感極まって泣いたりもする」
「はは。きみが泣くところなんて想像もつかないな」
「多分―――アンテナの問題なんだ。僕には人の気持ちが分からない」
「アンテナ……?」
「例えば今の有里香の気持ちを、僕は殆ど理解してあげることが出来ないんだ。もちろん、有里香が悲しんでいるとか、寂しいとか、そういうことは分かるよ。でも僕は、有里香の気持ちを理解して、自分のことのように辛く思ってあげることが出来ない。有里香の気持ちは、本当の意味では僕の心までは届かないんだ。受信できないんだ」
「でも、そんなのって―――」
「それでも、僕は有里香の気持ちが分からないことが、悔しくてしょうがないんだ。だから窮地に立たされてる有里香に、優しい言葉をかけてあげることが出来ない。有里香に嘘はつきたくないから」
僕はそれをいいながら、自分が泣きそうになっていることに気づく。僕はあふれそうになるそれをなんとかこらえる。
「やっと言えた。これが僕の本当の気持ちなんだと思う」
僕は有里香を突き放すような自分の言葉に、自ら傷つけられていた。でもこれは今敢えて言わなければいけなかったのだ。絶望の淵にいるはずの有里香にでも。それは大好きな有里香のために。そして、自分のために。
「ごめん……。こんなこと、今言うべきじゃないのに」
と僕はうつむいて謝る。寂しさを打ち消すために僕を呼んだ有里香に、僕は応えてやることができないのだ。僕にはそれが辛い。どうして有里香のためになってあげることが出来ないのだろう?
「謝らないで」
有里香は、言う。そして僕の手をとる。僕の手がすこしだけ冷たい有里香の手に包まれる。その温度が僕の胸の中まで染みこんでくる。有里香に触れている僕の手のひら。こんなふうに有里香に触るのは初めてかもしれない。自転車の二人乗りの時とは違う、特別な触れあい。
「きみがほんとうに冷たいひとなら、今その心のなかにある辛い気持ちは一体なに?」
視界が、揺らぐ。
「その気持ちがあるのなら、きみは十分、優しいよ」
僕の目には無意識のうちに涙が溜まっていた。この感情の正体は一体なんだろう? 僕は有里香に涙を悟られないように、目を背ける。
「あたしの気持ちなんて分からなくていいよ。優しい言葉もいらないよ。だから、ねえ、一緒にいて。それだけでいいよ。寂しいんだよ。帰ってこない人を、一人で待ってるのなんてもういやだよ」