コンビニで買ったタオルで体を拭き、喫茶店に入る。ジュースの染みこんだ服が体に張り付き、あまり良い気持ちはしない。
喫茶店には客がほとんどいなかった。悪い冗談のようなこの天気のせいかもしれないが、この店に来るまでにも、あまり車とすれ違わなかった。街全体が閑散としている。駅に出入りする人もいない。
貴子は奥の窓側の席にいた。ジュースのストローをくわえながら、こちらをじっと睨むように見つめている。僕はその正面に座る。
「おそいよ」と機嫌が悪そうに言う。貴子の飲んでいるものは、雨と同じ色のグレープフルーツジュースだった。
「雨は見た?」僕は言う。
「見たよ」
「ジュースの雨なんて、初めてだよ」
「朝まではモスコミュールが降ってた」
「そう……」僕はウェイトレスにアイスコーヒーを注文する。「どうして僕を呼んだの?」
貴子は「さあ」と、とぼけるように返す。その挑発的な態度に僕は少しだけ苛立ちを覚えた。貴子はこういう子なのだ。
「本当に来るとは思わなかった」
「行くよ。貴子が呼んでいるんだから」
「そう」と貴子は言った。「でもあんたは、もうそうやって私に気を遣わなくてもいいんだよ」
「どうして?」
「私はもうこっちには戻らない」
「え……?」
僕の思考はしばらく停止する。その言葉の意味がよく理解できなかった。
「だからあんたとはもうお別れなの。彼女によろしく言っておいて」
「ちょっと待ってよ。どこへ行くって言うんだよ」あわてて僕は言う。
貴子は静かに目を閉じて、神妙な面持ちで言う。「もうひとつの世界」
僕はまだ頭が回らない。
「何だって?」
貴子は、はあ、と小さくため息をつく。その仕草はなんだかめんどくさそうで、どことなく悲しそうでもあった。「説明をしても、あんたは分かってくれない」
「僕が貴子の片割れじゃないから?」
「え?」彼女にしては珍しく、目を丸くして驚いた。「どうして知っているの?」
「僕は会ったんだ。もうひとりの僕に」
「嘘……」と貴子は言う。
「本当だよ」
「そう」貴子は再び目を閉じた。しばらくの間、無言の時間が流れた。窓の外にはまだ、オレンジ色の雨が降っている。雨の音と、店に流れる有線放送の音だけがこの空間を満たしている。
「ちゃんと教えてくれよ」僕は言った。「いつもそうなんだ。貴子……。いつも、言葉が足りないんだ」
「言葉なんて虚しい」貴子はすぐに答えた。「言葉なんかでは、何も伝わらない。そうでしょう?」
「そうだよ。確かに、言葉で伝わるものは偽物かもしれない。それでも、言葉は必要なんだ」
「何故?」
「分かりあえることは、必ずしも重要ではないからだよ」
「そんなことない」貴子は首を横に振る。「私のことを分かってくれない人なんていらない」
自分のことを言われているようで、僕は胸が痛む。
「だから私は自分の片割れを探しに行かなければならないの」
「片割れの住む、もうひとつの世界に?」
貴子は頷く。
「だけど、どうやって? 向こうの世界になんて、行くことはできないだろう?」
僕が訊ねると、貴子は再び黙り込んだ。
「貴子?」
「できるの」呟くように貴子は言った。「私なら、できるの」
「どういうこと?」
「言いたくない。話しても長くなるだけだから」
「いいかげんにしてくれよ」僕は我慢できなくなって責め立てる。「ちゃんと言ってくれよ。言ってくれなければ分からないだろう?」
「言ったって分かってもらえないって言ってるでしょう?」彼女らしくない、比較的強い声で言い返す。
「いいんだよ、全部伝わらなくても。少しだけでいいんだ。それで僕の満足が得られるんだから」
貴子はまたしばらく目を閉じて黙った。僕はその間、アイスコーヒーにミルクを入れていた。そしてその沈黙を破ったのは貴子自身だった。
「変わったね、あんた」
「そうかな」
「りんごジュース」
「何?」僕は聞き返す。
「頼んで」
*
貴子はりんごジュースのストローをくわえながら、訥々と語り出した。あまり口数の多くない彼女がこんなに喋るのは、とても珍しいことだった。その様子はまるで覚悟を決めたかのようだった。
「中学生の時、天啓があったの」
「天啓?」
「あの感じは、きっと私にしか分からない。私はそのとき、もうひとつの世界の存在を知ったの」
「それは僕と付き合っていたとき?」
貴子は頷く。
「この世界の対になる、もうひとつの世界には、私たちの片割れが住んでる……そのことを私は知ったの。私は、悲しかった。私は、あんたが私の欠片を補ってくれる、私の片割れだと思っていたから」
僕と、同じだ。
「私たちは、自分の片割れとなら、完全な意思の疎通が出来る。ロスのない完璧な情報伝達ができる。だけど逆に言えば、片割れでない他人には、ほんとうのことは伝わってなかったんだよ。いくら言葉を交わしても、キスをしても、セックスをしても……それだけで気持ちが伝わったと思っても、結局それは思い込みで、偽物でしかないんだよ。片割れの存在を知るということは、片割れ以外の人間への、すべての思いを否定されたのと同じなんだよ」
片割れという存在。空想の実在。他人との意思の疎通は、そもそも不可能行為だということを、彼女は望みもしないのに、知らされたのだ。
「絶望って言葉では、やっぱり何も伝わらないでしょう? 私はその天啓で、全部を失った気持ちになったの。あんたなら、私の気持ちが分かってくれていたはずだったのに。私はあんたの全部が欲しかったのに、どれだけ仲を深めても、私の求めているものは手に入らないんだよ? 私はもう、すべてが台無しになった気分になったんだよ」
「知らなかった」僕の胸は深く痛んで、心にはあのころの気持ちが呼び出されていた。僕は泣きそうになっているかもしれない。「でも、それが聞けてよかった」
「でもね、その天啓で、私はもう一つ知ったの」貴子は続ける。「それが、《もうひとつの世界に行く方法》」
「方法? そんな方法があるの?」
「二つの世界は互いに離れているから、普通の人なら、絶対に自分の片割れには会えない。だけど、私にならできる。もうひとつの世界にいく方法を、私だけは知ってるから」
「どうやって行くの?」
「言えないよ」すぐに貴子は返す。「じゃああんたは、心臓の動かし方を説明できる?」
僕は何も言い返せなかった。
「私はあんたと別れて、中学を出たらもうひとつの世界に行った。今は向こうで暮らしてるの」
「そう、だったんだ」僕はいまいちピンと来なかった。貴子の言うように、言葉だけでは理解できないのかもしれない。「いつでも行ったり来たり出来るものなの?」
「そうだよ。だから時々帰ってきて、この喫茶店であんたに会っていたでしょう?」
「ああ……。そういえば、そうだったね」
「でも、それが良くなかったみたい」
「どういうこと?」
「こっち側の住人が、向こうの世界と行き来してはいけなかったんだよ。私たちはそういう風には出来ていなかったの。この世界の住人は、この世界にしか存在を許されていないんだよ。私が向こうの世界に行く方法を知ってしまったのは、多分、神様のミスかなにかだったんだよ」貴子は表情を翳らせる。「私のせいで世界のバランスが崩れたんだ」
「それって、まさか」僕は勘づいた。
「そうだよ。向こう側の住人でない私が向こう側にいるということが、ふたつの世界に矛盾を起こしているんだと思う。きっとそのせいで、いろいろ、おかしくなった。あんたもテレビを見てるでしょう? この世界がむちゃくちゃになっているのは、全部、私のせいだよ。もちろん、このジュースの雨も。あんたが、本来別の世界にいるはずの片割れに会えたのも、私のせいでふたつの世界の境界が曖昧になり始めているからだよ」
僕の心臓がひとつ、大きく鳴った。今、貴子は、なんて言った?
「そんな……」僕はその先の言葉を失った。世界を破綻させたのは、今目の前にいる、僕の昔の恋人だったのか?「でも、そんなの、思い込みかもしれないだろう。そう……例えば、貴子のように天啓を受けた別の人間が、別の能力を使って、悪意を持って世界を壊しているのかも知れない」
貴子は笑った。その微笑みはいささか悲しそうにも見えた。
「そうかもしれないね。でも、私自身は、それが自分のせいだということを知ってる。だから、そんな慰めはいらないんだよ」貴子は僕から目を背ける。「私のこと嫌いになったでしょう? 元々嫌いだったかも知れないけれど。でもあんたが私をどう思ってるかは、この際関係ない。そんなのは分かりっこない事だしね」
貴子は自虐的な笑みを浮かべる。
「それが本当なら、貴子のせいで、数え切れない程の人間が死んでいるんだよ?」僕はニュースを思い出して言った。
「そんな白々しい言い方しないで。それに、誰も分かりあえない世界なんて、無くなった方がマシだよ」貴子の声はだんだん消え入るように小さくなる。
「貴子……本気で言ってるの?」
「私はもう後には引けないんだよ!」
貴子の突然の大声に、僕はびくりとなる。貴子のこんな声を聞いたのは初めてだった。それほどまでに、貴子は追いつめられているのだ。自分自身に……。
「私は自分の片割れを探すの。もうひとりの自分を見つけ出して、《完全》になる……。止めたって無駄なんだよ」
「止めないさ」僕の心は穏やかだった。彼女のせいで世界がこんなふうになっているというのに、僕は今、貴子の溜め込み続けてきた本心がようやく聞けて満足していた。
貴子は僕を、上目遣いでじっと睨んだ。
「優しい振りなんかしたって、私はもうあんたにはなびかないんだよ」
僕は思わず、笑みをこぼす。
「何を言ってるんだよ」
「似たような顔をして、紛らわしいよ」貴子は言う。
「僕が、何と紛らわしいって?」
貴子はりんごジュースを全部飲みきり、ずずずと音を立ててストローを吸う。
「向こうの世界の北高に、私は通っているの。同じクラスに、あんたにそっくりな人がいたよ。ううん、こうしてみると顔はそこまで似てる訳じゃないかな……でもあの人は、なんか、あんたそのものだった。多分、あれが、あんたの片割れなんだと思う」
「僕の、片割れ……」
貴子の言葉で、すべての辻褄が合った。もうひとりの僕が出会った《貴子》は、貴子の片割れなんかではなく、今目の前にいる貴子本人だったのだ。「そう、だったのか。貴子と、同じクラスなんだ、僕は」
「うん」頷く貴子。「もうひとりのあんたは、私のことが好きなんだって」
僕は既にそのことを知っている。
彼の感情。僕の感情。
彼の言うように、僕はまだ貴子のことを忘れることができていないのだろうか。
「頭の中まで同じなんだね、あんたたちって」
「そりゃあ、同一人物だからね」
「何だか馬鹿みたい。どうして恋なんていう不毛なものに入れ込むことが出来るの? 人を好きになる気持ちなんて全部騙されてるだけなのに。あんたたちはそのことを知っているんでしょう?」
「知ってるよ。でも受け入れる事が出来れば、それも悪くないと思うようになったんだ」
「分からないよ」
「分からないだろうね」僕が苦笑いを浮かべると、貴子は不機嫌そうに僕を睨んだ。
「自分だけ悟ったような事言わないで。あんたがそんなこと言ってられるのは、あんたがまだ《不完全》のままだからだよ。片割れには、まだ、その先があるのを、あんたは知らないだけ」
「その先だろうとなんだろうと、僕は知らなくていいよ。今僕はね、とても気分が良いんだ。こんな気持ちになったのは初めてだよ。必要なのはすべてを知ることじゃない。すべてを分かり合うことでもない。あるがままを、受け入れることなんだよ」
「もういいよ」貴子は捨てるように言って席を立つ。
「待てよ」店を出ようとする貴子を追って、僕は適当な額を置いて店を出る。