店の外は、半袖から露出した肌が凍り付くような寒さだった。世界の色も変化していた。店に来たときまで降り続いたグレープフルーツジュースの雨は、いつの間にか純白の雪に変わっていた。七月の空は雪雲に覆われ、オレンジ色の水たまりの縁に雪が少し積もり、溶けたかき氷のようになっていた。
大雪の中を、夏服のまま、傘も指さずに歩いていく貴子。僕はその後を、同じく薄着で歩く。露出した肌は凍てつくようだった。昨日までは蝉が鳴いていたというのに……。貴子の髪には、大粒の雪がはらはらと積もっている。
「貴子」僕は、どこかに向かって歩く彼女の、その名前を呼ぶ。しかし貴子は振り返りもせず、僕に背を向けたまま早足で歩き続ける。
「もうひとりの僕に告白されて、その後はどうしたの?」
「断った」抑揚無く貴子は言った。「付き合ったって、先は見えてる。もう一度あんたとやり直したって、何かを得られるとは思えない」
「彼にひどいことを言った?」
貴子はしばらく黙った後、「言った」と呟いた。
「全部言った。何もかも。できるだけあんたが傷つくように。できるだけ私を嫌ってくれるように」
「そう」と僕は言った。
「あんたは何を言われても傷ついたりしないけど、」さらりと貴子は言う。「もうひとりのあんたは、そうじゃなかったみたい。多分、もう、二度と……」
「どうしてそんなことを?」
「私は何も知らなかった頃のように誰かを好きになる事なんてもうできないよ」
貴子はぴたりと足を止める。
僕たちは歩道橋の上にいた。銀色に化粧された歩道橋。深々と降り続ける雪。下を通る国道には、車が一台も走っていない。この天気のせいか、街中が揃って息を潜めているようで、巨大なかき氷のようになってしまったこの街は、なにもかもを拒んでいるように見えた。
みんな、世界がすべて元通りになるのを待っている。
いつまでも、かつての日常がまたやってくると信じている。
「久しぶりだね、この歩道橋」僕は言った。
中学時代の帰り道、僕と貴子はいつもこの歩道橋で、夕日の沈むのを見ながら、たわいもない話をしていた。今思えば、あの頃の貴子はよく笑っていた。口数は少なかったが、その分、僕は貴子の気持ちをくみ取ろうと必死で、色んな事を話したのを覚えている。その内容のほとんどは、本質ではないものだったけど、それに耳を傾ける貴子は、僕の話にあわせて、頷いてくれたり、微笑んでくれたりした。夕焼けの色に染まった貴子の表情はとても愛おしかった。
あの頃の僕はとても幸せだった。僕の話に貴子が笑ってくれるだけで、僕は貴子のすべてを理解した気分になった。貴子がひとことも喋らなくても、僕はまるで超能力者のように、彼女の気持ちが分かった。それが分かり合うことなんだと思った。言葉なんて無くても、その存在だけで、僕たちは通じ合っているのだと思った。僕は貴子の欠けた部分を埋めるために生まれ、二人で1つの完全なピースになるのだと信じて疑わなかった。そしてきっと貴子も同じ気持ちだった。
あの日々の、あの感情は、本当に偽物だったのだろうか。僕は複雑な心境だった。片割れを得てもなお、心の通じ合いを、僕は完全に否定し切れずにいた。
「寒い」貴子は言った。
「そうだね」僕は言った。
僕たちの間に、それ以上会話は無かった。信じられないくらいの寒さの中で、僕たちは肩を並べて、まっすぐ伸びる国道の向こうを見下ろしていた。中央分離帯を挟む四車線の道路は、ずっと遠くの消失点まで続いている。その両脇には古いビルや店が並んでいて、人影はひとつも無い。僕たちが立っているのはあのころと同じ位置だった。日が暮れるまで話をした、思い出の中のあの場所。
あの時とは違い、僕はもう一言も無かった。これ以上、今の貴子にかけてやれる言葉なんて、僕には無かった。
「私はもう戻らない」
白い息を吐いて、貴子は呟いた。雪に凍えた僕の手足が感覚を失い始めたころだった。貴子は遠くを見ていた。
「だから、さよならだよ」
「うん」と僕は言う。僕も貴子と同じ方を見る。国道の消失点。そこに夕日は無い。雪雲に隠れた太陽はまだ高い位置にある。
「ねえ、」貴子はこちらを向く。「私が今、何を考えてるか、分かる?」
僕は貴子と目を合わせる。貴子の容姿はあのころとほとんど変わっていない。まるで時が経つのを拒んでいるかのように。貴子の頬は、寒さにほんのり紅く染まっていた。あの頃のように、何を考えているのか分からない、変化の少ない表情。
「分からないさ」僕は言った。
灰色の雪雲が溶けた。一瞬のうちに、夜空のような闇色に染まった。太陽はどこかに行ってしまった。雪はぴたりと止み、極寒の北風も無くなった。点在したグレープフルーツジュースの水たまりも色を失い、ただの水のようになった。白い雪と黒い空。ビルも、民家も、道路も、歩道橋も、中央分離帯も、標識も、木も、草も、花も、僕も、貴子も、世界はたった二色のコントラストで塗りつぶされた。モノクロ写真のような世界。時間が止まったのだと思った。
貴子は消えた。
空が元の青色に戻り、太陽はとたんに照り出した。蝉が思い出したようにあわてて鳴き始めている。太陽がじんわりと僕の冷えた肌を温めていく。失われていた七月の午後の暑さだった。雪はすぐさま溶け始め、貴子の立っていた場所の足跡も、やがて薄らいでいった。
*
驚くほど不器用な有里香の代わりに、食事は僕が用意するようになった。僕だって家庭科の授業以外で料理をしたことなんてなかったけど、本を見ながら練習するうちに、すぐに出来るようになった。
もうすぐ冬が来る。大学受験が近い。僕は大学を、有里香はその近くの短大を受験する。今はそれに向けて一緒に勉強している。僕が有里香と暮らし始めてから、有里香は次第に元気を取り戻していった。有里香の家族はいつまで経っても帰ってこないままだ。まるで、そんな人間はもとからいなかったかのように。
有里香のマンションで、有里香とふたりきり。こんな生活はいつまで続くのだろう。
もちろんそれは永遠ではないし、有里香ともいつかは別れることになるだろう。今、僕は有里香のことが好きだ。有里香も僕のことを好きだと言ってくれている。だけどそれはいつまでだろう? 僕たちはどんな別れを迎えるのだろう? そのとき僕たちの気持ちはどうなっているのだろう?
昨日のキスと今日のキスはどう違う? 有里香が自分の感情を隠していても、僕に嘘をついていたとしても、僕にはそれを感じ取ることが出来ない。だけど僕は有里香のことを信じている。この信じる気持ちこそが、最も大切なものなのだと僕は思う。この気持ちがある限り、僕は有里香と上手くやっていくことが出来るだろう。
『どうしてそんな不毛なことができるの』。貴子ならそう言うだろう。『ひとを好きになる気持ちなんて偽物だ』と。
だけど僕は、そうは思わない。有里香を好きなこの気持ちを、否定したくはないのだ。笑われたっていい。矛盾だと言われてもそれでいい。僕はそれでいいんだ。僕は、それで……。
半年ほど前、貴子が僕の目の前で消え去って以来、どういうわけか奇妙なニュースは次第に減っていった。どの雑誌やテレビ番組でも必ず目にした『片割れ』の文字も、最近はあまり見かけなくなった。空の色が変わることも、もうなかった。
貴子はあれから本当に二度と姿を現さなかった。貴子の言ったとおり、あれが本当の『さよなら』だったのだろう。
貴子は半年前のあのとき、こう言った。
『私が今、何を考えてるか分かる?』と。
貴子は、あの頃のような、そこに存在しているだけで通じ合う気持ちというものを、もう信じてはいなかった。お互いの気持ちを分かり合うなんてことは、不可能なことだと思っていたのだ。
だが僕は、あのとき貴子が何を考えていたか、本当は分かっていた。そしてきっと貴子も心のどこかで、それに気づいていた。『分からないさ』と嘘をついた僕の、その真意が、きっと彼女には伝わっていたのだと思う。その証拠に、貴子は、消える瞬間、笑ったように見えた。かつて僕に微笑みかけてくれた時のような、忘れることのできないあの笑顔だった。
貴子はきっと、あの通じ合いさえも、偽物だと言うのだろう。だから、僕は、何も言わなかったのだ。
貴子は去り際に、僕の目を見てこう思った。僕にはそのことが確かに分かったような気がしたのだ。
『もう一度好きって言って』。
片割れ "For every lonely pair" ――― 終