赤鬼青鬼 8

逃下校

 逃げるとか逃げないとか以前に、授業はそんなこと関係なしに再開してしまう。昼休みは終わり、午後の授業、しかもいきなりテストなんだよね。鬱が鬱を広げるよ。んで、いつの間にか問題が配られていて、私は鉛筆を握ってて、教室中からカリカリカツカツ音がする。みんな猫背になって必死に何かを書いているのだ。でも、私は全然何も書けない。問題が理解できない。というか、うまいこと問題文の文字に焦点が合わないんだなー何故か……眠いわけじゃないんだけど、どうにもぼうっとしちゃって、意識がテスト問題まで下りてこない。しかも大嫌いな数学だし。唯子ちゃんは出来てるのかなあ、と思い、前方を見ると、スムーズに鉛筆を動かしている。ああ見えて理数系得意だもんなあ、あの子。はあ……鬱々。
 長ーい時間の果てにテストが終わり、私の愛しい白紙が回収されて、その白紙がアキちゃんに見られる。
「サヤどうしたの? 白紙じゃん!」目を丸くするアキちゃん。
「んーちょっと、調子悪くって……」
「なに? 今アレ?」ちょっと小声でアキちゃんは言った。
「そうじゃないけど……、なんか、もう、ね……。いいかな、って」
「おいおいー。しっかりしてよーサヤ」
「あんなテストとかやっても意味ないよ。数学とか必要ないもん」
「……サヤ、ちょっと帰りに付き合って」アキちゃんはなんか真顔だった。

 その日の夕方。授業が終わって、みんなが帰宅し始めると、唯子ちゃんがやってきて「帰るぞ」と言う。
「あ、あの……」そうだ。私はアキちゃんと帰るために、唯子ちゃんを断らなくちゃいけないのだ。あの二人が一緒に帰るなんてどう考えてもあり得ないもんね……。だけどアキちゃんと帰るから先に帰って、なんて、口が裂けても鼻にちくわ突っ込まれても言えないでしょう、それは。あの『アキちゃん嫌い』っぷりからすれば、そんなことバレた日には絶交は確実だもんなあ……。
「何? 何か用事でもあんの?」と訝しむ唯子ちゃん。
 私は絶好の言い訳を思いつく。「実は、今日のテストが全然できなくって。それで先生に呼び出されちゃってて……」
「ふーん、そう」と唯子ちゃんは興味なさそうに言った。そして「でもそれ嘘でしょ」
 ギクー。なんでバレるかなあ!
「だってあたしフツーに聞こえてたし。あんたがあのメガネと帰る約束してたとこ」
 ドクドクドクドク。私、焦る焦る。心臓が特にテンパってる。ヤバい、怒られる。叩かれる。絶交される。変な汗を出し始める私。
 唯子ちゃんはそれを知っていながら私を試したのだ。私が唯子ちゃんをとるかアキちゃんを選ぶのかを!
「なんで誤魔化そうとした?」その威圧的な目。私は石のように固まってしまい、何も言えなくなってしまう。その代わりに目に涙がたまる。「なあ?」
 駄目だ。事は起こってしまった。逃げたいよ……。時間が戻って欲しい。帰りたい。こんなことになるんならアキちゃんと約束なんてするんじゃなかったと思う。唯子ちゃんに嫌われちゃう……。
「なんとか言えって」唯子ちゃんは私を責め立てる。
「だって……怒られるかと思って……」
「アイツと帰るんならそう言えばいいじゃん。そんだけのことで怒ったりしねーし、ってかむしろそういう態度はむかつくからやめて。コソコソやんならもっとあたしにバレないようにやれって、そしたら分かんないから」と、怒鳴るわけでもなく、静かにそう言って、唯子ちゃんは去っていった。私はその後ろ姿を見ていた。唯子ちゃんの小さな肩はなんだかいつも以上に小さく見えた。

 しばらくして、私はテニスコートにいた。私は金網の外から、コートを眺めていた。コートには十数名の、ジャージ姿の生徒達が集まって輪を作っている。その中に一人だけ制服姿があった。アキちゃんだった。ここからじゃ中の声はあまり聞こえないけど、アキちゃんは他のテニス部員達に、なにかぱくぱく喋ったかと思うと、部員の輪から外れてコートを出、私のところへ鞄を持ってやってきた。
「帰ろっか」とアキちゃんは言う。
「部活、よかったの? 行かなくて」
「今日からテスト週間だし、練習は自主でってことになってるからね」
 そうなんだ、と私。
「なんで私がテニスをやってると思う?」と、アキちゃんは突然そんなことを言った。
「え……」私はその理由を考えてみるけど……うーん。テニスが好きだから、じゃないのかなあ。
「私こう見えてもね、」アキちゃんは笑って、その腰に両手を載せる。「結構ウエストくびれてるんだよ」
 というアキちゃんの腰は、よく見てみればとても引き締まっている。私のお姉ちゃんみたいに。今までそんなこと気づかなかった。アキちゃんって実はスタイルよかったんだ。
「すごい……」と私は素直に言う。
「これも多分、テニスのおかげだよ。腰、使うからねーかなり」
「え、それが理由?」
「幻滅した?」アキちゃんは冗談っぽく言った。
 ぶんぶん、と首を横に振って私はそれを否定する。「しないしない」
「あはは、よかった」

 私たちは学校を出て、駅まで歩き始める。並んで歩くと、アキちゃんってやっぱり背が高いなあ、ってのを実感させられる。目を合わせようとすると、私が少し上を向かないといけない。私だって一六〇センチあって、そんなに小さい方じゃないと思ってたけど、アキちゃんは一七〇近くあるもんなあ。それでもってあのスタイル。
「でも駄目だね、こっちは全然育たないし」と笑って触ってみせるアキちゃんの胸は確かにぺったんこだった。それだけだったら私の方が勝ってるかも、ちょっとだけ……。
「いいなあー、私もそんな背が欲しいよー」
「はは、ありがと。でも女の子はちっちゃい方が可愛いと思うよ」

「私、たまに思うんだ。なんでこうなっちゃったんだろう、って」
「背のこと?」
「ううん、それもあるけど……」
 私とアキちゃんは歩く。この若宮大通りにはいつも同じ向きに風が吹いている。車の走る方向に……。この風って、この沢山の車が起こしてるんじゃないかって私はいつも思う。
「テニス部部長、生徒会副会長、席次はいつも一桁……」アキちゃんは呟く。「私のやってきたことって、これでよかったのかなー、って」
「さすがアキちゃん、贅沢な悩みだなあ……」
「そうかも。でも、私、勉強がそんなに好きってわけじゃないし……たまたまそれが出来ただけで……テニスだってそう。本当はそんなに興味はないの。って、こんなこと部員に聞かれたらかなりヤバいけど!」
 ははは、とアキちゃんは笑い出して、私もそれにつられる。
「優等生、っていうキャラが一人歩きしてる感じ。本当の私はそんなんじゃないのに」
「キャラ?」
「そう、キャラ。そういう役なんだよ、私。ねえ、この世界が、一つの大きな『劇』なんじゃないか、って時々思うの」
 アキちゃんは言った。広い舞台の上で、私たちは自分の役を演じているのだ。神様に見せるための『劇』を……。
 多くの人は、自分がどんな役をなのか気づかない。だけどアキちゃんみたいに、たまに自分の演じる役に気づいてしまった人も、悲しいかな、結局はその役を演じ続けるしかないのだ。『台本』に従って。決められた場面で決められたセリフを言い、予定調和の寸劇を演じる。それがこの世界の全てなのだ。
 室町時代の農民だって、きっと好きで農民をやっていたわけではない。彼らは農家の家に生まれることによって、生まれながらにして農民という役柄を割り当てられてしまっていたのだ。だけど農民がその身分を越えること、例えば武士になったり天皇になったりなんてのは、ありえないことなのだ。侍は生まれながらにして侍であり、天皇は天皇になるべくして生まれてくる。
 誰でも何かの役割を演じている……。

「勉強するのは嫌?」アキちゃんは言った。
「私は……、アキちゃんみたく頭よくないんだよー。教科書見てると、頭の中、ぐしゃぐしゃになってくるし、最近は全然ついていけないよ。私、入る学校間違えたんだと思うよー」情けない私。とほほ……。
「そっか……」
 こういうアキちゃんみたいな人にはきっと分からない。私みたいな成績の悪い人が、どうして勉強が出来ないのかなんて。頭のいい人は、同じように勉強すれば、誰でもいい成績が取れると思ってる。頭の良い悪いなんてそもそも無くって、どうやって勉強してきたかっていう違いがあるだけだ、って。でもそんなことは無い。頭の良さってどう考えても決定的に存在してる。だけど頭のいい人にはそれが分からない。
「ごめんね、私、サヤを元気づけようと思ったのに、こんな愚痴ばっかり言って」
「ううん。アキちゃんと話せて楽しかったよ」
「は、はは。サヤあんた、よくそういうこと平気で言えるね……」アキちゃんの顔はちょっと赤かった。「ところで、サヤ、いつも村上さんと一緒に帰ってるの?」
「うん。毎日ってわけじゃじゃないけど」
「あの人って、どういう人なのかな……」
「え?」私は驚いた。アキちゃんの口から出るとは思わない言葉だったから。
「私は多分あの人のことは一生好きになれないけど……、もしかしたらね、私、ああいう風になりたかったんじゃないかって」
 ああいう風。私は唯子ちゃんの顔を思い浮かべる。
 唯子ちゃんは強い。必要以上に厳しすぎる風当たりにも負けないで、彼女は自分のキャラクターを押し通している。
「でも私、遊ぶのは大学に入ってからでいいと思ってる。このまま行けば、多分推薦で大学入れると思うし。しかも授業料免除! タダで通えるなんて最高じゃない? そういうのが無いと優等生なんてやってらんないよ、馬鹿みたいで。……はは、駄目ね、家が貧乏だと、お金のことばっかり」
 というアキちゃんの家は母子家庭で、父親はアキちゃんが生まれてすぐに他の女と蒸発した。そういう『設定』なのだ。不遇な家庭に生まれ、それをバネに勉強をして優等生になる。アキちゃんはそういう『登場人物』の『役』を受け持ってしまっただけなのだ。